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小宮豊隆:漱石文庫本への 「解説」 自筆原稿
 
 
 別稿、「『夏目漱石』 精興社から初校ゲラが出た日付」 にあるように、昭和13年の前半まで、小宮は、同書の執筆・出版に多忙を極めている。しかし、小宮は、これと平行して、文庫本への解説文も執筆し始めていた。漱石作品の文庫本はそれ以前から出ていたが、まだ作品の本文だけで、解説は付いていなかった。他方、現行岩波文庫への解説は新しい執筆者に交代している。
 (小宮自身も、作品によっては、後の版で完全に別内容の解説を載せている。私の所蔵する文庫本では、『三四郎』では、上の自筆原稿に基づくものと、新たに書き下ろされたもの、の2種が存在する。)
 
  小宮の文庫本解説を読むには古い版を求めねばならないが、しかしこちらは、後に『漱石の藝術』として1冊に纏められた決定版の解説が少々回りくどいのに対して、長さが大体四分の一程度で大幅に短いながらも単なる簡約版ではない独自な記述を含み、小宮の云わんとするところが伝わりやすい。今日でも一読に値する。なお、自筆原稿と文庫本の印刷文を対照してみると、小宮が現存しない初校ゲラへ手を入れた形跡は少ない。
 
 私の手許には、文庫版の原稿となった自筆原稿が、17冊分存在している。解説文の最後には執筆の年月日が記されている。1点『文學論』だけは、最後の1枚が散逸し日付が分からないので、これを除いた16点を日付順に一覧にしておきたい。いずれも、岩波特製 20 x 10 200字詰枡形原稿用紙に書かれている。 (この17冊に含まれていないものに『こゝろ』があるが、『こゝろ』の解説は、昭和2年に岩波文庫100冊が選ばれた際、その1冊として、すでに執筆されていた。その自筆原稿は手許に存在しない。文庫では、解説の日付は、昭和2年9月15日となっている。)
 作品によっては、小宮独特の推敲、手直しが、あいかわらず短い解説文中に多数認められるので、その主なものを、パート1に続くパート2として示しておきたい。
 
 
 
パート1: 執筆年月日一覧
 
 
1. 『坊つちやん』     昭和12年12月16日。22枚   (文庫本初版 昭和4年7月5日)
 
2. 『吾輩は猫である』  昭和13年2月1日。44枚。   (同 昭和13年2月25日、下巻3月25日)
  
 
3. 『三四郎』       昭和13年5月1日。20枚   (同 昭和13年5月10日)
 
 
4. 『それから』      昭和13年5月20日。21枚   (同 昭和13年6月15日)
 
5. 『行人』        昭和13年5月24日。20枚   (同 昭和5年10月15日)
 
6. 『門』         昭和13年6月27日。19枚   (同 昭和13年7月20日)
 
7. 『虞美人草』      昭和13年10月23日。23枚   (同 昭和14年1月10日)
 
8. 『草枕』        昭和14年3月22日。14枚   (同 昭和4年7月5日)
 
9. 『彼岸過迄』      昭和14年11月10日。24枚  (同 昭和14年11月29日)
 
10. 『倫敦塔』       昭和15年4月24日。21枚
 
11. 『漱石小品集』     昭和15年5月9日。24枚   (同 昭和15年6月18日)
 
12. 『明暗』      昭和15年9月19日。21枚     (同 昭和8年9月10、下巻30日)
 
13. 『思ひ出す事など』    昭和15年10月8日。20枚
 
14. 『二百十日』『野分』   昭和16年3月30日。20枚   (同 昭和16年5月3日)
 
15. 『道草』        昭和17年7月29日。13枚      (同 昭和17年8月25日)
 
16. 『坑夫』        昭和18年6月29日。19枚
 
★ 『文学論』    (文庫本初版は、昭和14年12月14日發行である。)
 
 

 
 
 
パート2:文庫本解説文中の主な手直し
〈 〉は削除部分。下線はマス外加筆部分。


先ず、
 
6. 『門』  昭和13年6月27日。19枚   から言及したい。
 
というのも、「初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』」(第1回)において、私は次の様に書いた:
 
たとえば、41章「再び神經衰弱」の最後の「私から言わせれば」に始まる段落は、初版以降、漱石に対する妻、「鏡子の無理解と無反省と無神經」を非難し、「正しい漱石」を強調するものとして、本書を最も特徴付ける箇所の一つとなっているが、この後半、「正しい漱石は」に始まる印象的な部分は、ゲラ段階で追加記述されたものであった。
 
ゲラ段階、すなわち自筆原稿ではこの部分は、以下のようにあっさりと書かれていた。
 
事實は、漱石は、自分が最も愛する者、従って自分が最もよく知つてゐるものの中に、最も醜いものを澤山に発見するやうに、運命づけられてゐたからである。
 
それが、次のようになった。
 
正しい漱石は、自分が最も愛する者、自分が最もよく知つている者、自分に最も近い者の中に、最も醜いものを澤山に発見する時、愛し、知り、近いといふ理由で、それを見て見ぬふりをするといふやうな、だらしのない眞似が出來なかつたのである。その上人は、自分に近い者でなければ、眞正の意味で、愛しも憎みもする譯に行かない。最も近いが故に最も憎まれるといふ事は、その人に救ひやうのない「惡」が巣喰つてゐる為である。
 
小宮の面目躍如たるものがあるが、本ブログでは、今後このような箇所を、網羅的に、おそらくは十数回に渡って紹介しながら、小宮の漱石伝を改めて考える場所にしたいと思う。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
 
 
 『夏目漱石』のこの箇所のゲラが出たのは、別稿にあるように、昭和13年5月11日であった。文庫本の『門』の解説が書かれた日付は、昭和13年6月27日となっており、その一ヶ月半後になるが、実際にはもっと接近していたであろう。その結果として、文庫本解説には小宮のこだわりを示す興味深い類似点が見出されるのである。
 
 原稿19枚中、14-17枚において大きな書き直しがあるが、その全体を示す前に、当の17枚目の箇所を抜き出して示したい。(下線は筆者。上の「正しい漱石」という思ひ切った記述は、小宮のその場の思いつきではなく、確たる信念であったことを伺わせる。)
 
手直し前:
 
漱石は、自分が實生活に於いて、
あまりに清いもの、あまりに正しいものを求
めた結果、絶えず罪の意識に追つかけられで
もするやうに、
 
手直し後 = 文庫本:
 
漱石は、實生活に於いて、
自分があまりに清く、あまりに正しかつた爲に
絶えず罪の意識に追つかけられで
もするやうに、
 
 
 
14-17/19
 
漱石は、是までどの作品ででも、自分自
身を描いてゐないものはない。『猫』の苦沙
 
彌先生でも、『坊つちやん』の坊つちやんで
も、『草枕』の畫工でも、『虞美人草』の甲
野さんでも、『三四郎』の廣田先生でも、『
それから』の代助でも、すべて漱石自身の分
身である。然し漱石は『門』の宗助〈の場合の〉に於ける
やうに、真性の自叙傳的な意味で、自分が自分の實生活の上で体驗した
重大事を、まともに、殆んどそのまま〈の形で、〉作中の人
物の体驗の中に切り〈箝めたのを、まだ〉込んだ事は、曽て前例を見た事
がない。勿論さういふのは、漱石が宗助のやうな事件を捲き〈を〉起こして、お米のやうな女と同棲してゐたといふ事を意味するのではない。漱石は、〈此序に、自分を〉明冶二十七年
(一八九四)の暮から明冶二十八年(一八九
 
五)の正月へかけて、圓覺寺の宗演の會下で参
禪した 〈時の一部始終を、明白に、且つ綿密に
書き記してゐるが、これが漱石にとつて、〉 が、それを此所に持つて來て、ぎりぎりの所まで押し詰められた宗助の、最後の企てとして、從つて宗助の一大事として、描き出してゐる点をいふのである。漱石の参禪は、漱石にとつても、一大事であつた。決して當時の  流行
趁ふ、遊び半分の 〈御体裁〉 〈仕事〉 見てくれ ではなかつた〈事は〉 その事を、
當時の漱石の書簡 〈のみならず、〉 が證明する。のみならず その後の 漱石の 書簡
・日記  〈の類ひが證明する。それのみではない、〉 〈。〉  ・文章・『猫』その他の作品も亦、漱石が漱石の曽ての参禪と関聯する問題で、絶えず悩み續けてゐた事を、証明する。例へば
『猫』の中 〈に〉 では、巫山戯切つた外貌の下に 〈く
ははるが、〉  苦沙彌先生が 落雲館の生徒と喧嘩をしたあとで、  自分の「心の實質 〈を〉
太く  〈も〉  なる」 修 〈養の〉 業をする  爲に、いかに  いろいろ苦勞する 〈樣〉 
が、 〈いかにも〉  憫然 〈に〉 たる姿に於いて、 描き出され 〈てゐ〉 〈のであ
 
る。然るに〉  漱石は、自分が實生活に於いて、
あまりに清 〈いもの〉  く、 あまりに正し  〈いものを求
める結果、〉  かつた爲に、 絶えず罪の意識に追つかけられで
もするやうに、少しも安き心がない事に堪え
られなくなつ  〈て、〉  た結果、それを乗り超す努力を重ね
〈ながら、〉  〈て來てゐ〉
るのであるが、然し 長い間  かかつても、 それをどうしても乗り超す 〈の〉 
が出來な  〈い嘆きを、〉  かつた。それを この宗助に  〈よつ〉  於い て 象徴し 
宗助に同じ嘆きを嘆かしめる事によつて、自
分の 〈その生活〉  嘆き に、一往の段落を置かうとした
もの  〈だらふ〉 に違ひない  と思ふ。






次に、『門』同様、漱石に深く言及するのが、
 
15. 『道草』 昭和17年7月29日。13枚
 
であるが、文庫の解説文としては最も短く、13枚である。10枚目まではスムーズであるが、11枚目から、大幅に手が入る。
 
(手直し前)
 
10/13
               「世の中に片付くなんて
ものは殆どありやしない。一遍起った事は何
時迄も續くのさ。たゞ色々な形に変るから他
にも自分にも解らなくなる丈の事さ」 〈といふ〉
 
11/13
 
〈言葉が出て來るのである。さうして〉 漱石は、
〈その立場から自分の過去を眺め、 〉 「三十六」
歳の健三  〈が、どうしてそのやうな健三になつ
たのかを『道草』に於いて描き出した。〉 島田夫
婦の家庭生活、島田夫婦の健三に對する特殊
な愛情、健三の實父の健三に對する態度、健
三の兄や姉や姉婿などの生活、健三の細君、
健三の細君の父や弟、その他『道草』に出て
來て健三と因縁を結ぶあらゆる人間が、眼に
見える見えない因縁となつて、健三に働らき
 
12/13
 
掛け、健三を健三らしいもの 〈にするのである。〉
〈漱石は、〉 健三の利益・不利益に 〈論なく、峻厳
に精刻に、その〉 因縁とその因縁に反應する健
三とを検討する。
 『道草』ほど専門家の間には評判がよく、
また『道草』ほど一般的に人氣の湧かない作
品はない。是は恐らく『道草』が、家常茶飯
の生活を題材として、瞠目させたり感傷させ
たりする事件がなく、その家常茶飯の生活さ
へ、教師のじめじめしたやうな生活で、一向
 
13/13
 
華華しい所がない爲で 〈はないかと思はれる。〉
然も事實は漱石は、『道草』に於いて、箇人
的なものを徹して、一般人間的なものに觸れ
てゐるのである。殊に、『道草』をさういふ
ものにする爲に、漱石が自分を自分自身から
突き放して眺めた、その客觀的な態度は、比
類のない高さを持つてゐるのである。
 
   昭和十七年七月二十九日          小宮豐隆
 
 
 
(手直し後)
 
10/13
               「世の中に片付くなんて
ものは殆どありやしない。一遍起った事は何
時迄も續くのさ。たゞ色々な形に変るから他
にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
 
11/13
 
然も問題は、人がその因縁を、どう處理するかで〈きまる。〉あつて、さういふ因縁
が人間を十重二十重にとりまいてゐる事を、認める事ではなかつた。漱石は、
『道草』で「三十六」
歳の健三を主人行として、幼い健三を養子とした
島田夫
婦の家庭生活、島田夫婦の健三に對する特殊
な愛情、健三の實父の健三に對する態度、健
三の兄や姉や姉婿などの生活、健三の細君、
健三の細君の父や弟、その他『道草』に出て
來て健三と因縁を結ぶあらゆる人間が、眼に
見える見えない因縁となつて、健三に働らき
 
12/13
 
掛け、健三を健三らしいものにして行く所を描き出したが、同時に漱石は〈その〉健三が、誠實であるにも拘はらず、その因縁を素直で謙虚な心持で受取る事が出來ず、もつと大事な仕事を前にして、『道草』の爲に、自分の時間と精力とを浪費してゐる事を指摘した。健三の利益・不利益に拘はらず、
〈漱石が〉健三の持つてゐる 因縁とその因縁に反應する健
の態度とを、追求し検討する漱石の態度は峻厳を極め精刻を極める。
 『道草』ほど専門家の間には評判がよく、
また『道草』ほど一般的に人氣の湧かない作
品はない。是は恐らく『道草』が、家常茶飯
の生活を題材として、瞠目させたり感傷させ
たりする事件がなく、その家常茶飯の生活さ
へ、教師のじめじめしたやうな生活で、一向
 
13/13
 
華華しい所がない爲であるに違ひない。
然も事實は漱石は、『道草』に於いて、箇人
的なものを徹して、一般人間的なものに觸れ
てゐるのである。殊に、『道草』をさういふ
一般人間的なものにする爲に、漱石が自分を自分自身から
突き放して眺めた、その客觀的な態度は、比
類のない透徹と高 〈さ〉 慢とを持つてゐる。それが一番一般には理解され〈な〉にくい所為〈であ〉だらうと思ふ。
 
   昭和十七年七月二十九日          小宮豐隆





 
 
1. 『坊つちやん』
 
6/22
 
 勿論さうは言つても、私は、 此所に漱石が松山で
見聞した事が、一つも使はれてはゐないと 〈、〉
〈はうとする〉  のではない。漱石 〈は其所に住ん
で、〉 ともかく一年間は其所 〈の 〉に住んで、其所の 空氣 〈に接〉 を吐呑 してゐ
〈たのだから、そこで〉 るのである。その經驗が何等かの形で 〈、〉
何所かに出て 〈ゐ〉 るのは、當 〈然の事〉 り前 である。
 
8/22
 
漱石自身經驗した事〈な〉だつた〈かも知れ〉 に違ひない。その
他 宿屋・下宿・温泉・寄宿舎騷動・祝捷會・ぴかぴか踊・
喧嘩、〈すべて〉 漱石自身〈の〉經驗〈で〉
〈は〉なかつたまでも、こんなこともあつたなどと、 〈漱石が〉 松山で 〈話に〉 人の口から聴いた
事であつたのかも知れない。然しその事と、
即ち漱石がそれらの事を『坊つちやん』の道
具に使つてゐるといふ事と、漱石が『坊つちやん』
で松山の中學を書いたといふ事と 〈が〉 は、全然別箇の問題で
ある〈事は、説明するまでもないであろう。 
 
9-10/22
 
松山、もしくは松山らしいものを感
じさせる、もろもろの道具は、それらのもの
にさらに現實性を與へる爲の、單なる方便に過
ぎない。芝居の術語を使へば、ほんの小道具のやうなものである。漱石から言へば、人が『坊つちやん
』を讀んで、其所に松山を感じやうが感じま
いが、そんな事は、どうでもよかつた。狭い
 
世界に住んで、天下に坦坦たる大事がある事
〈にも氣がつか〉 を知らず、〈氣が〉 〈い〉 てもその道をあるかうと 〈もせず、〉 する勇気がなく、因襲に支配されて生き、 表向きは体裁の好い 〈やうな〉
事ばかり言つて〈ゐる癖に、〉 陰へ廻つては相手
を陥れ、自分だけ得をしようとするやうな、
こせこせねちねちした人間の塊りが、讀者の
眼の前に 〈生きて動くやうに感じられ〉 躍如として動いて來 さへすれ
ば、これは例へば高知でも延岡でも、何所で
もよかつたのである。
 
13-16/22
 
              (12/22   もしこの世の中といふものが、)
 
この「二十五萬石の城下」によつて代表され
るやうなものであるとするならば、坊つちやんのや
うな人間は、到底この世の中には住んで行け
〈ない〉 る人間ではないといふ事が、この『坊つちやん』の筋から出て來るからである。
 然し漱石は、さうは考へなかつた。假令坊つち
やんのこの「城下」に於ける歴史が、世俗的の意味のみならず、竟極の
意味ででも亦失敗の歴史であつたとしても、漱石は寧ろ
それを、光榮ある失敗の歴史と呼ばうとす 〈るの
であ〉 る。坊つちやんは、「世の中に正直が勝
たないで、外に勝つものがあるか。考へて見
 
ろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あ
した勝てなければ、あさつて勝つ。あさつて
勝てなければ、下宿から辨当を取り寄せて勝
つ迄こゝに居る。」と言つて、寄宿舎の生徒
と喧嘩をした。喧嘩をしては大人氣ないなど
とは、坊つちやんは決して考へない。〈是も坊
つちやんが正直で、直情径行、天真爛漫に振
舞ふからである。〉 大人氣のあるなしを考へる 〈の〉 には、坊つちやんはあまりに正直であ 〈つ〉 りすぎた。火のついたやうに性急に正しいもの清いものを愛しすぎた。其所に坊つちやんの「無鐡砲」たる所以があつたのかも知れない「。」 が、然し 〈こ〉 その「無鐡砲」は、實に坊つちやんの天真爛漫から來ているのである。然も坊つちやんをして失敗
せしめたものも亦、坊つちやんのこの天真爛
〈であ〉 に外ならなかつたとすれば、その坊つちやんの失敗の責任の大半は、天真爛漫
 
が負ふべきであるよりも前に、その天真爛漫
を容れる事の出來ない、堕落した社會あ負ふ
べき 〈でなければならない。〉 であつた。勿論坊つちやんに
は、〈叡知〉 高い知慧がな 〈い〉 かつたには違ひない。それだから坊つ
ちやんは、竟に坊つちやんたるに止まつてゐ 〈る
るのではあるが、〉 なければならなかつたには違ひない。然し漱石にとつて、〈社會は憎
む〉 糾弾すべきは、さういふ坊つちやんを愛する事を知らない社會であつても、坊つちやん〈愛すべきで
あつ〉 なかつた。〈それだから〉 それだから漱石は、坊つちやんを 〈ゆと
りをもつて取り扱ひかつ、〉 見下ろしながら、愛をもつて取り扱ふが、坊つちやんを取り巻いて、坊つちやんを失敗せしめ 〈る〉 なければならない社會を―
 
―狸を、赤シャツを、野だを、憎悪をもつて取り扱ひ、完膚なきまで
嚴格に鞭その卑しさをうつのである。〈此所で〉 『坊つちやん』では、對立する二
つの世界の區別は、截然と分たれる。どんな物好
きな讀者でも、自分を狸、赤シャツ、野だの
類ひに擬しようと する讀者は、恐らく一人もゐないだ
らうと思ふ。
 
 
20-22/22
 
高等師範では、まさか團子だの蕎麥だのを禁じはし
はかつたとしても、別な「團子」だの「蕎麥
」だの 〈が〉 は、相當 澤山あつ 〈て、〉 ものに違ひない。それだからこそ 漱石は當時高等師
 
範にゐ 〈る事を〉 て、窮屈で「窮屈で 〈堪らなく感じた〉 恐れ入」つたもの 〈で〉
〈は〉 違ひない〈かとも思はれる。〉 もし〈さうだ 〉この想像にして誤りがなかつた とすれば
〈是〉 〈『坊つちやん』〉 〈は、〉 漱石が子規の所へ、「教員生徒間の折
合もよろしく好都合に御座候東都の一飄生を
捉へて大先生の如く取扱ふ事返す返す恐縮の
至に御座候」(書簡第三八号)などど書いて
やつてゐる松山 〈で〉 の中學に於ける漱石の体驗の方 〈が〉 〈を〉 が、『坊つちやん』を生み出して來る上に、遙に重要な 〈資料となるも
のであると、想像しても可い事になりさう〉 役割を勤めてゐた筈といふ事は、 〈ある。〉 殆んど明白であると言つて可いであろう。少なくとも坊つちやんの氣象の中に、〈は、〉 漱石の
象が 〈相當〉 可成濃厚に注ぎ込まれてゐる以上、我々が 〈此所〉 坊つちやん 〈の〉
に若い漱石の――大學を出たての漱石の面影
を見ようとする事は、それほど 〈不合理 〉見当違ひな事でもない筈
である  〈。〉 と思はれる。――といふ事が然し、『坊つちやん』に當時の高等師範の事が書かれてゐるといふ意味でない事は、無論である。
 
 


 


 
2. 『吾輩は猫である』:
 
 上のパート1で示したように、『猫』の文庫本解説は、200字詰原稿用紙で44枚、すなわち400字詰で22枚。他の作品の2倍強の長さである。他の解説は、決定版(及び『漱石の藝術』)の四分の一程度であるが、『猫』は決定版解説の40枚余りに対して、その半分を越える枚数になっている。
 決定版の『猫』の配本は第4回。奥付では昭和11年2月10日発行(実際には 11.2.17。詳細は、当ブログ・ホームページの他の箇所「決定版の編集日記を参照」 )なので、決定版の解説を書いた後ほどなく文庫本の解説(昭和13年2月1日)も書いたと思はれる。そのためであろうか、小宮の筆はひじょうにスムーズで、44枚も書きながら、最後の段落となる44枚目を除き大幅な加筆削除は少ない。
 その44枚目は、ものすごい手の入れ様である。以下、手入れ前の文と手入れ後の文(文庫本に一致)を示す。

44/44 
 
(手直し前)
 
 かういふ事は然し『猫』そのものの藝術的
な價値とは、なんの關係もないことである。漱
石は、次の作品で前の作品を否定するやうに
絶えず進展しつづけた作家であるから、漱石
の眼から見れば、自分の過去の作品は、すべ
て價値がないもののやうに見えたらしい。漱
石がなんと言つても、我我は我我の眼で見て
面白いと思へば面白いとするに、何の躊躇も
要しない筈である。
 
  昭和十三年二月一日      小宮豐隆
 
 
(手直し後)
 
かういふ事は然し『猫』そのものの藝術的
な價値とは、なんの關係もないことであつた。漱石は『猫』を書く時は、全力をあげて『猫』を〈かく。〉書いた。それだけに漱石は、それを書いてしまへば、それ 〈は〉 を卒業する。漱石はもうその場所にはゐない。〈のだからそれだけ〉 書く事によつて、漱石は前進する。その点で漱石は、次の作品で前の作品を追ひ越しつつ、
絶えず進展しつづけた作家であ 〈る〉 〈と言つて可い。〉 〈から、〉つた。従つて漱石
の眼から見れば、自分の過去の作品は、すべ
て價値がないもののやうに見えるのも、當然の事であった。然しその事とその作品の藝術的價値とは別である。一つの作品の藝術的價値は、その中に作者の真実が、どれだけ輝き出てゐるかである。その真實が此所に溢れてゐる限り、漱
石がそれに就いてなんと言はうとも、我我は我我の眼でそれを認めて、
面白いとし、価値ありとするに、何の躊躇も
要しない筈である。
 
  昭和十三年二月一日      小宮豐隆



21-22/44
 
   その 〈点から言へば、〉 意味で、「斷片」第七に來
て、『猫』の基調は、初めて確立されたと 〈い
ふ事が出來る〉 言つて可いのである。――漱石の『自転車日記
』・「斷片」第五・「斷片」第六・「斷片」
第七 〈と、〉 是らのものを、順を追うて見て來ると、漱石が『猫
を』書 〈き得るまでに、〉 く態度を把握する事が出來る爲に、即ち書かうとする對象の上に抜け 〈る事が出來●るために、〉 出て、その對象から煩はされる事なしに、自由な態度でそれを支配する事が出來る爲に、いかに自分自身 〈の氣分〉
を鍛錬しなければならなかつたが、明瞭に
 
分かるやうな氣がする。
 
 
 
23-25/44
 
              (勿論「斷片」第七の中の猫が、独立した一)
 
箇の人格を持ち、自分で筆を執つて、吾輩は
猫であると名乗り、主人や妻君や子供や下女
や車屋の黒を描冩する事が出來るやうになる
までは、作者の一大飛躍を必要とする、相
當の距離があるには違ひなかつた。その代り
この一大飛躍が成就されれば、作者は、自分
自身の 〈全〉 責任に於いてではなく、猫の 〈全〉 責任
に於いて、言ひたいままの事を言ふ事の出來る利益があ
〈り、〉るとともに、讀者 〈の方から言へば〉 には、そ 〈の言葉〉 れが、猫の言ふ事
〈葉〉であるといふ理由から、その言葉をそれほど厳粛に受
 
けとる必要がなく 〈なつて、〉従つてそれらの言葉に對して、打ち解けた自由な心持ち
〈の上にあるゆ〉
〈とり〉を持つ事の出來る利益があるのである〈。〉 さういふ
人格を創造し〈所〉 に先ず漱石の独創があり、また漱石
の『猫』が読書界を席巻した第一の理由がある
るのであるが、漱石は恐らく 〈その〉 かういふ人格を創造
する 〈までに、〉 事が出來る爲に、夏の休みごろから〈、〉十二月の初
めごろまで 〈を費したもの〉 〈で〉 〈あろう。〉 〈はないかと思はれる。〉 の時日を必要としたものに違ひない。然も二月の「斷片」第五
以來、漱石が段段に自分の氣持を練つて、〈それに〉書くものに圓味を與へ、次第に『猫』の世界〈著しく〉近づいて行
つてゐる事實に徴すれば、漱石は「斷片」第
七以後、虚子が今度の山會で朗讀するから何
 
か書かないかと勸めるまで 〈、〉 の間 〈にも、〉、絶えず新しい形
式に就いて思ひを凝らし 〈てゐたに〉 〈相違なく、〉 〈違ひないし、また〉
虚子からさう言はれて筆を著ける氣になつた
時には、丁度『猫』を書く機縁が、漱石の中で熟しきつて
ゐた時だつたのに相違ないのである。