TOP

第三次全集に関する連載第2回、『心』等における和田と小宮のやりとりについては、まだまだ書くことが多いが、それは後の回(第8回以降)へまわし、この第3回(第3回のみ)は、第三次全集を受け取った当時の予約者・読者からの反応、その他関係者からの書簡を特集する場にしたい。読者の書簡の多くは、誤植を指摘したり、その一覧表を添付したり、本文の確定方針を批判したもので、封書やはがきが多数現存している。15,000人もの予約があったわけだから、そうした反応は当然であろう。読者のレベルは、総じて高い。
なお、当時の住所と漱石全集の宛先は、

東京市神田區南神保町十六番地
岩波書店内
漱石全集刊行會
電話 牛込 六九四五番
振替 東京 三八一五一番

であるが、震災のため岩波邸内に一時假事務所もあった。

東京市小石川區小日向水道町九十 二三番地
電話 小石川 一四三四
振替 東京 二六二四〇番


(1)大正13年8月4日の消印が押されたおもしろい内容のはがきがある。送り主の名前も住所も入っていない。第二回配本は、『吾輩は猫である』である。〈 〉は消されている部分。

漱石全集の第二回配本が昨日着。開けて
みると、あて字や間違った字やに 〈ぬけた字にも
(  )が入れてある。そしてそれが御丁寧にも〉〈部分は削除〉
 いちいち活字で原と書いてある。わざわざそん
なベラボーナ手間を入れずになほして置いたって
誰も不足を言やしまひ。又原文通りの活字に
した事が故人の学殖や人柄を高むる所以でも
(注: 次行からはハガキ表へ)
あるまいに。丁寧な事
をしたものだとあきれるより
外にどう考へても理由を発
見し得ない。門弟の内の誰れ
が主任でやるのか知らんが漱石
君も泉下でアバタ面に苦笑を浮べ
て居る事と思ふ。

(注:もっともな指摘である。ちなみに、第二回配本の『猫』は小宮が帰国する前の発行である。)


(2)小宮帰国後の第六巻『心』についても、以下のようなはがきが来ている。「大正拾四年五月拾九日受付」との岩波のスタンプが押されているが、送り主は、「五月十七日 松江 奥谷、一九二 多田齋司」さんからである。

追々全集も完結に近づいて参ります。御喜び
申上ます。第六巻、心、道草の中に、次のやうな誤
植らしいものがありますので、既に御心附の事とは存
じますが、一寸申上て置きます。

【第六巻】         誤?            正?

二〇六 終から五行   発作的(はつさてきのルビ)    ほつさてき
二一六     六行    自生の生れ                   自分の生れ

尚八四頁一行の小供だの二行の格好だのは先生のかいたまゝ
でせうが これを子供 恰好と印行するのが眞実の意味
の校正ではないであらうか。


(筆者注)
一つ目のもの、自筆原稿には「はつさ」と漱石のルビがあるが、新聞初出、初版共に「ほつさ」と直し、第一次全集でも、「ほつさ」であった。第三次において、和田と小宮が、「はつさ」に戻した。連載第2回で言及した『心』の異同表1冊にも入っている。以降、岩波では「はつさ」のままのようである。

二つ目については、多田さんの見まちがいではないかと思われる。「自生」というのはどこにもない。ともあれ、多田さんの見解はりっぱな校訂論ではある。


(3)大正13年(1924)9月24日
『銀の匙』を書いた中勘助から、「漱石全集刊行会」へ、宛先等の問い合わせに対する返事のはがき。大正13年9月14日受け取り。細かい字でいっぱいに書かれている。

夏目先生書簡二通(御用立てのもの)御返し被下確に領収。その内御訊ねの封書は大正弐年
参月四日発信、(時間は不明)当時の先生の住所は早稲田南町 X 番地、小生の住
所は多分下谷区上野櫻木町四四(?)眞如院(奇寓)と思ひますが
併し或は当時用事の爲 小石川区小日向水道町九二番地の
家へ戻つて居つたかとも思ひます。封筒はありませんが他の手紙と記
憶から推定したのです。たしか此前出た漱石全集にのつてゐるだらうと思ひ
ますが、大正二年参月十六日発信私宛の先生の手紙があります。
それは(与謝野晶子氏妊娠中の爲小生の作が先生の小説のすぐ次に出る事
になつたといふ事がかいてある筈です)小生の銀の匙を先生の紹介
で朝日新聞にのせるに就ての手紙で執筆の発信年月は不明
の手紙のすぐ後につゞく筈のものと思ひます。それ故その十六日附の手紙
の封筒にある私の住居と執筆不明の手紙を受取つた当時
の私の住居とは多分 同じだらうと思ひます。 右御返事迄


(4)大正23年9月23日消印及び岩波受付印のはがき

和田は、読者からの手紙の多くに返事を出していたらしい。次は、「東京高輪南町六番地」の読者からのはがきである。

御願い
先日は校正に就いて御丁寧な御返事
を下さいま志てあつく御例申上げます。
御手紙によりますと「漱石文法」なるもの
があつてそれに依つて校正などを御
極めになつて居るとの御事ですが
それは全集讀者の豫備知識とし
て是非必要の事と存じます
から「漱石文法」を一部御送り下され
ば幸甚に存じます。

(注: 和田が求めに応じて「漱石文法」を送ったかどうかは不明。)


(5)大正13年(1924)4月28日
すでに連載第2回で言及したように、(第4回でも言及する)、第三次全集の第一回配本は10巻『初期の文章』『詩歌俳句』で、大正13年6月5日に出た。しかし、以下のはがきはそれより前の4月28日、つまり「内容見本」を見た読者からの、クレームとして送りつけられたものである。四谷大番町86 三須鉚氏からで、その後5月6日には、同氏から、以下に和田が安倍能成に問い合わせる書簡に言及されている「遺墨の写し」も送られている。(その封筒のみが手元に存在している。)

〈注: なお、三須鉚氏については、別ブログの「昭和10年決定版の編集日記」 11.10.8. を参照。漱石から同氏宛の書簡。〉


呈上  内容見本通讀致候 通篇皆精錬せられたる文字
にて近来出色の好記述と畏憚敬服致候 此の記述ありてこそ
眞に故人の卓越せる好文章を想見せしめ候 たまたま
書簡 明治二十四年の項 六行目 戰栗(原)、 八行目 僻(原)色 に
いつれも「原」なる小字を挿入せられ在り、是は 慄 字、 聲色
と一般に書載せるよりしての御注意、即ち「もとのまゝ」の
意に解したるも、愚居には字典其の他参考書類無爲
十全の事は申されざるも記憶に依れば 慄 は 戦々栗々 の如く
史記想斯傳其他古文に見受けたり 又 聲色 は 僻色 と古来書き
慣はしたるやに存及候要之故人は漢文などにも博通せられたる
事故、造作顛沛(注: ぞうじてんぱい)にてあやふやな文字は使用せざる事と存候 小微
事ながら此の見本だけにては此の「原」眼中の・本の如に感ぜ
られた故に一寸御参考迄に申上た 尚前書に申上た小生所蔵の故人の遺墨
冩は之、両日中に
御送付致す所存
大正十五年四月廿八日
四谷大番町八六
三須鉚


和田は、安倍能成へ、このはがきに次のようなメモを貼り付け、送っている。(安倍の回答を同時に示す)


啓成社大字典に

戰栗   戦慄  に同じとあり。

安倍: コレハ「原」ヲトラレタシ

 ~ ~

同書

僻色    つけいろ、 ごまかし の
僻聲    (コワイロ)  つくりごゑ

安倍: (僻色に対して)コレハ少シアヤシキ樣ニ覚フ。外ノ字引ニアタリ捜サレタシ


上の件で、和田が安倍へ送った書簡は以下の通り。

先日(戰栗)(僻色)の件につき注意を申し越された三須氏から別紙の通り夏目先生の遺墨の冩しを送越されました。
此詩が事実夏目先生の御作であることが確かめられ、全集に入れることになれば 三一六頁だと存じます。すると三四八頁まで 行送りにせねばなりませんから、至急、御採否御決定を願ひ度う存じます。 事務の方で入手して居りましたので本日私が見ましたのですが、恐入りますが 明日、御調べになるか或は御調べになるまでもなく捨てることになさりますかの御返事を願ひ度存じます。

(和田はこの後で、僻色「についていろいろな辞書、井上英和辞典、等で調べた結果を報告している。」)


安倍: コノ詩ハ已ニ収録サレテアル故懸念ニ及バズ    僻色(原)ニテヨカラン




以下の(6)(7)(8)は、同一読者、横浜市青木町上反町四七一、細野重之氏からのものである。



(6)大正13年(1924)12月8日(受付9日)。はがき。表に朱で「返すみ」とある。


漱石全集 第五巻 正誤。(注: 『彼岸過迄』と『行人』の巻)

頁    行         誤             正
はじがきの
二  一二      附けられてゐろ…        附けられてゐる
三   五            街               衒
(本文)
一二  五      籐椅子(と・いす)       (とういす)
一五  一      推測通り(ど・)            (すゐそくどほり)
四一  一二    其室(そのへ・)に坐つて    (そのへや)
五六一 一〇    媒の色              煤の色
七六六 一三・一四
       だいち時間がないぢや 、「引用で、ないか、を脱落か省略」 君、そんな事をする。よし時間があつても、……
                                                        (句読点問)

右気づいたまゝおしらせいたしました。 十二月十七日

正誤表二 早速御送り下さつて有難う存じました。

(和田は、指摘の3箇所、へ「つぶれ」等の朱を入れている。)



(7)大正13年(1924)12月22日(受付23日)
細野氏は、次は、封書、岩波特性の便箋(200字)2枚に書いている。和田から返事をもらい、さらに気づいたことは同封の便箋へ書いてくれ、と言われたのであろう。第五巻にふれた後、さらに第2巻「短篇小説集」にも言及している。


御返事を拝見して却つてわたしの申上げた事に誤のあつた事を
知りお恥ずかしく思ひます
さてその御返事の中

(第五巻) 七六六頁一三行一四行

だいち時間がないぢやないか、君、そんな事をする。よし時間があつても、

と仰る通り印刷されてゐるものなれば何も申上げる要はないのですが、今
手元の第五巻を見ると

十三行     「左右(さう)さね。 。。。。。。…… 。だいち時間(じかん)がないぢや」
十四行     、君、そんな事をする。 ……

とあるのですが。即ち十四行の上から三字分丈あいてゐていきなり 「、」 点が
あるのです。それを どうせ 正誤なさる以上 お調べになると考へたので
ハガキに認める煩を短慮にもさけたばかりに、仰るやうな御返事を貰ふ
やうな事になつたんでせう。 今よりも覚ませんが ハガキにたしか正誤は
せずに単に疑問とのみしておいたのだと思ひます。


第二巻について目についたのをおしらせします。不才のわたくし、又何か
間違ひを申上げる様な事があつたら御面倒でも御教示を願ひます。

頁    行         誤               正
九三   一〇      一箇月(か つ)      一箇月(かげつ)
一四六   六      冠(かんむ〃)       冠(かんむり)
四二〇  一三      彼等(われら)が     我等(われら)が
四六四   五     廣(ひろ)い詩界(し い)を     (しかい)を
七四四  一二     樅(もみ)の枝(え)      樅(もみ)の枝(えだ)
八八三   二     中野君(なかのく )     中野君(なかのくん)

他に紙型作製の不手際から来たと思はれる ルビ 三ケ所程
気づきましたが、不鮮明にすぎぬものと解して申上げません。
要件のみ    以上
                細野重之
和田様  御中


(8)大正13年(1924)12月25日(受付23日)のはがき。表に、「返信済」「記帳済」


漱石全集第四巻 正誤表

頁    行   誤         正
一五八  一三  寺小屋       寺子屋    「和田鉛筆: 原稿通り」
二四〇  一三    愛嬌        愛嬌     「和田: 誤植」
四五二  一一  自宅( たく)   自宅(じたく)(或は不鮮明?)「和田:ツメ」
五四六  四(注:三の誤記)時々鮎 乾したのや   時々鮎の(を)乾したのや
六〇一  一二  発展(はつ ん)  発展(はつてん)「和田:ツブレ」

尚、 辛抱 の 抱 の代わりに 忙 を用ひたる例 唯一 (他ハ 抱 ナリ)なる箇所 七四頁三行にあり、誤植とも 小生思はれざれど 御参考の爲に添ふ。(尤も第十巻の中には例あり)


(9)年月日不明
第三次全集において、第9巻『小品』『評論』『雑篇』は、すでに見てきたように、それなりに検討を重ねた

配本第8回  6巻『心』『道草』
配本第9回  3巻『虞美人艸』『坑夫』
配本第10回 8巻『文學論』『文學評論』

に続く第11回目の配本である。それなら、細かいミスも少ないだろうと期待したのだが、実際にはそうでもなかったようだ。なにしろ、この巻は、1,160頁に達する全集中最も分厚い冊ではある。

封筒と日付は判明しないが、以下の様な、便箋2枚に書かれたものがある。


小生 病中 暇を偸みて 讀みたる中 気付きたる 誤りに
付き 御報告致します(但し第九巻)

頁   行      誤               正
一五   1           心得(こ ろえ)          心得(こころえ)
三〇  7           しはらくして(はの゛壊)   しばらくして
三九  4           過(くわこ)去        過(くわ)去(こ)
四〇  1           始(はし)めて        始(はじ)めて
四〇  7     其(るび欠)の上(うえ)   其(そ)の上(上)
四四  8  自分(じぶん)は虜(とりこ)た(゛壊)から  虜だから
四五  1          相圖(あひづ)          相圖(あひづ)で
四六  11     護(ごこ)國(く)寺(し)       護(ご)國(こく)寺(じ)
五八  5          母(はゝ)の考(かんか)へ     母(はゝ)の考(かんが)へ

五八  14         拝殿(ばいでん)         拝殿(はいでん)
六〇   3         林檎(りんこ)           林檎(りんご)
六一    10         豚( た)            豚(ぶた)
七三     8         紛失(ふんじつ)         紛失(ふんしつ)
九〇   2         樞機に参(さん)する       参(さん)ずる
                  (注: ここは 参する で問題ない)
三四一   8         瀬戸引(せとひき)       瀬戸引(せとびき)
                  (注: ここも、ひき で問題ない)
三六一 10         映( い)じた          映(えい)じた
三七九  8         今( ま)            今(いま)
五五四  13         母か               母が
五七六  12         堪え               堪(ぺ)
                    (注: へ のつもりであったか)

高知縣高岡郡越知町

山本道清


(10)大正13年5月19日から数日後
連載第1回、菅虎雄宛書簡のところで言及した「漾虚碧堂」と題される「編輯雑録」の5月11日には、「高松甚一郎氏より漱石先生真筆書簡カケ軸一幅借用ス」とあり、5月19日には、「高松甚一郎氏より借用せる漱石先生書簡掛図一幅謄写済につき鉄道便を以て同氏へ返却す」とある。

その高松氏から、次のような書簡が来ている(便箋のみが「漾虚碧堂」の該当塲所に挟まれている)。

漱石全集刊行會
              足下                     高松甚一郎(印)

漱石全集書簡 早速御返送下さいまして慥かに落
手致シマシタ。
アノ手紙ノ封筒ガ今手許ニアリマセンノデ郵送
ノ月ハ時間ハ正確ニワカリマセンガ明治四十三年二月十日
御発信ト記憶シテ居リマス
當時先生ハ牛込区南町ニオ住ヒデ私シハ栃木懸
芳賀郡山前村大字道祖土(サヤド)ニ居リマシタ
オ忙シイ處色々御手数ヲ煩シ恐縮デ御座イマス
別紙御預り書封入差上ゲマシタカラオ受取リ下サイ


(注: ここにもあるように、当時、資料を借りる際には当然借用書を書くが、それは資料を返却の後返してもらっている。)



(11)次は、「校正の神様」と称えられた神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883.6.14. - 1935.3.10.)からの書簡である。「大正拾四年四月参日 受付」(消印も同日)とある封筒には、宛先が達筆のペンで、
神田區南神保町十六番地  岩波茂雄様  和田さん 親展
と書かれている。裏面は、日附 四月三日 と共に、 神代種亮 の署名と朱の住所印 「東京市本郷駒込林田一ノ二四二」 が押されている。

中身は、 10  20  さかゑ堂製原稿用紙B4〈200 x 2  400字〉2枚と
12  25  さかゑ堂製原稿用紙B4〈500 x 2  1,000字 〉1枚のあわせて3枚からなっている。


(1枚目)

冠省
昨夜は折よく拝眉の機を得誠に難有存じます
左に先生在学中の成績の一部(冩し)と全集
見本中の誤りを御報告致ます
全集全体については追々とりまとめて御参考
に供度と存じます
当将来の御交誼御願します      草々
     四月三日
                   神代種亮
岩波茂雄様
          梧右


(2枚目は、成績表から漱石の成績を2箇所抜書)

明冶十七年十二月(第一學期) 第四級(英學生徒)
については、月報第十號 の鎌倉幸光 「豫備門の生徒試業優劣表」の中にある 盬原金之助 東京 の部分と同じ箇所である。月報の写真は縮小されていてやや見にくいが、こちらを参照されたい。


明冶十八年三月(第二學期)
    改正学科 第四級
修〈身學〉 72.5   和漢〈文〉 72.0   和漢作文 74.0  解釋 78.0  文法作文 74.0  代数〈學〉 93.5  幾何〈學〉 63.5  地文〈學〉 53.3  日〈本〉歴〈史〉 83.5   支那歴史 67.5  體〈操〉 72.0    總〈點〉 793.8     平〈均點〉 72.2    及〈第〉  缺課 3


(3枚目は、全集の見本中 「セルマの歌」 の冒頭の文の字を例に意見を述べたもの。)

見本中
セルマの歌の項

はじめに、 皐(をか)に似た字、 白 が 自 となっている印刷所の造字らしきものを注意して、

正シクハ  皋       告ぐ  ゆるし  水澤  たかし

阜 のつもりの書換と見るを穩当とする。如何

〈なお、出典の原文については、私が監修した 『漱石 評論・講演復刻全集』(ゆまに書房)第1巻 237頁 を参照されたい。〉 


〈次いで、第二段落3行を引用して〉

巌はこゝに、木もこゝに咽ぶ流れもこゝにこそ。

を引用し、〈こゝに の後に〉 「ナクテナラヌ 「。」 也。」と朱記している。

〈注: 神代は流石である。これまでの版ではすべて 「。」がなく、原典の原文においてもそうである。フルストップがなくても意味は一応通るが、ある方が落ち着く。原典を見ると(神代は見ていないはず)、この部分は、行末に来ていた。つまり、原稿の段階では「。」があったが、行末故に削除された可能性もある。ただし、この印刷物、他の行では、ぶら下がりの句点や読点はある。 神代は、最後に以下のような注意を与える。〉


尚、
 日記、書翰等ワザワザ 誤用、誤書マデモ
 元ノマヽナルニ拘ラズ、本文(世ニ發表ニテ
 先生自ラ新聞ト單行本ト縮刷ト三度モノセルモノ)

 先生特用ノ文字 語格ニテ訂正シアリヤ〈として、2例をあげる。〉


  嚆〈くち がなく、草冠の代わりに 山、高の下の口 が ᠁ になっている字〉 じて、

の ᠁ を口にしろと。

さらに、
  向ふ三軒 等ノ如シ
の ふ を う にしろと。



 



(読者からの便りは今後追加予定あり)