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筆者のブログネーム、sousekitokomiya は、From Souseki to Komiya を短くしたものであるが、その第1シリーズは「初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』」でした。

この漱石伝は、今回のシリーズで扱っている「附 漱石年譜」が出てから10年も経たないうちに書かれたのであるが、その細かさに圧倒されてしまう。特に漱石の出生から子供時代についてはそうである。小宮は、この間、昭和10年の「決定版全集」を念頭に置いて、多岐に亘る調査を行っていたのでしょう。以下に示す資料中にも、

24●和三郎が先妻を嫌ひしは事實にて今回年譜作製の必要上小宮氏がその命日を照合せしも遂に回答來らず。

の段落がある。ともあれ、昭和3年普及版(円本漱石全集)出版時には、今回のブログで取り扱う「附 漱石年譜」とその関連資料に書かれている程度しか知られていなかったといってよい。それ故、小宮らのその後の調査には、ここで扱う未公開の資料が貴重なベースになったはずである。(ちなみに、平岡敏夫氏の岩波文庫版『夏目漱石』への「解説」によると、昭和3年までの一番古い漱石伝としては、赤木桁平『評伝夏目漱石』(大正6年)があるが、筆者にはまだ未見である。)

夏目鏡子『漱石の思ひ出』に付された「漱石年譜」においても、連載第2回に示した「漱石先生年譜」においても共に、幼少年時代については空白が目立ったり、年代に違いが出たりしている。年譜作成において一番苦労した点であろう。

「水谷某」なる人物が存在していた。小宮豊隆の『夏目漱石』にも数回出てくるが、漱石の子供時代を直接知っていて、漱石の兄、和三郎と親友であったとされる人物である。荒正人の『漱石研究年表』など、この人物に言及していないようだが、その信頼性がどの程度であれ、幼少時の漱石を直接知っていたことには間違いないようである。無視するわけにはいかない。

岩波書店は、「附 漱石年譜」に先立つ「漱石先生年譜」を作製するに際して、その幼少年時をさぐった文書を残しているが、ここで水谷某は重要な情報源となっている。以下のような3点の文書が現存する。

(1)「岩波特製」200字詰原稿用紙22枚からなる「水谷氏口述の筆記 九、二十、 於小石川宅」なる文書。これは文字通り、水谷氏の口述を直に聞きながら速筆したと思われる読みにくいもの。最後の方の1枚にだけ店員である「植村」の印があり、それを入れた封筒には「重要」と朱書されている、この方面の最初期の貴重な資料といえる。実際に誰がこれを聞き取り、書き取ったのかは明白でない。

(2)上の(1)にその他、狩野享吉ら旧友の思ひ出を多少追加して、同形の原稿用紙19枚ほどに読みやすくまとめた手書き文書。清書と言えるほどではなく、かなりの追加削除が存在する。 ○で40の段落に分けられている。

(3)上の(2)の追加削除に従いながら、忠実にタイプ打ちしたもの。1行38字、13行。全9枚。●で40の段落に分けられている。

以下に(3)の全文を示し、これらの文書が概略どのような内容であるか示したい。(後々の参照の便宜上、●の前に、現物には存在しない番号を入れる。)


1●夏目先生玄關の二畳か三畳に住む。(遲刻のため何處の家の玄關なるや不明)當時眼が惡く結膜炎にて駿河臺の井上醫院へ通ふ。よく罨法(注: あんぽう)をやりながら話す。

2●明治元年盬原家に養子に行く。戸籍改正に伴ひ養父盬原氏、夏目先生を自分の長男として届出る。養子にいつた後も淺草の養家から市ケ谷の實家夏目へよくゆく。養父他に女をこしらへ養母との間不和になる。養母、養父と別れて夏目先生を連れて馬場下に住む。馬場下にきてからも實家夏目へよくゆく。後、夏目へ復籍す。

3●夏目先生盬原家へ養子にゆく以前佐々木吉蔵の世話にて源兵衞村の八百屋へ里子に出された事あり。その八百屋が新宿へ夜店を出し、先生を籠に入れて大道に置くを佐々木吉蔵が見て可哀想に思ひ先生の姉に告げて遂に實家に引取る。一説に先生の姉自身が大道に籠に入れてゐる先生を見たとあれど夏目の如き大家のお嬢さんが夜外出する筈なし。確かにこれは吉藏が見てきて姉に告げたるものなり。この八百屋が夏目の女中お松といへるものの實家ならずやとの疑ありたれど水谷氏これを否定す、如何なる關係ありて源兵衞村の八百屋へ里子にやつたか及び女中お松の素性不明なり。この八百屋へ里子時代に疱瘡にかゝりたりとの説出てたるも盬原へ養子に行きて後の方たしかなり。

4●女中お松の事 お松は先代御新造様の時より夏目へ奉公に上り、後下男の倉吉といゝ仲になり遂に妊娠し、御新造の存命中夏目の極く近く、馬場下に世帯を持つ。倉吉なるもの後鳶職になり小頭に累進して死す。お松は夏目先生が源兵衞村の八百屋へ里子に出された家の娘ならずやとの疑ありたれど素性不明なり。姉にお咲といへる早稲田町の建具商へ嫁せるものあり。尚夏目家は漸次零落しお松以後女中なし。

5●夏目先生幼少時は一見馬鹿の如く、圖太く、禮を知らず、無教育にして誠に下等なる者の如し。(八百屋等へ里子にいつた關係もあらん)父母を呼ぶにチヤン、オツカアと稱す、常に無口にして友達の問に對し完全なる返事をなさず、又友達が菓子等與へるとも決して禮を述べずに是を喰う。頑強なる處もあり。大道へ寝ね、又御維新時代の上野戦争後へ友達八九人にて鐵砲玉を拾ひにゆき叱られたる事もあり。往年の文豪夏目漱石先生を思はしむる風采些かも無し。

6●先生の幼時と純一氏の幼時と甚だ酷似せり

7●先生の幼時概して表情不足なり(狩野氏曰)

8●夏目先生一橋中學へ通ふ。當時、家賃困にして、水谷氏往々竹橋の近邊にてボロ袴を着せる夏目先生と行逢ふ。先生と呼びかくるも滿足の返事なし。

9●夏目の家は舊高田の名主なりしが先生の生後間も家運漸次傾き明治二三年頃遂に全く零落し先生は貧困に育つ。當時夏目は牛込馬場下の坂下右の露路門内にあり(盬原の家に非ず)井戸側に小さき倉あり。尚姓を有するは近隣に夏目家のみ 此の時代のこと水谷氏よく承知せり。

10●牛込榎町伊豆倉屋忠兵衞 〔飼葉御用商人〕 放蕩児にして夏目へ借金に來る。

11●伊豆橋、新宿大宗寺の女郎屋にして福田と稱す。後夫婦とも死に絶ゆ。

12●盬原はこの福田の親類なり。

13●夏目先生が養子に行つた盬原は元名主ならん 〔これは慶應明治時代の町鑑(まちかゞみ)をみよ〕 後淺草區長になる。町鑑は狩野先生の蔵書を仙臺の東北大學へ譲つたものゝ内に幾分あり。

14●伊豆橋 〔福田〕 の親類にして夏目へ出入の者あり。たしか夏目の玄關の處に住み居たる好男子あり。これが盬原なるや或は大助なるや當時水谷氏は九歳か十歳の事なれば確たる記憶なし。

15●和三郎氏矢來町に現在居れど昔時の盬原家に就きては恐らく知る筈なからん。

16●夏目家々族の死 房之助五歳にて逝き、長兄大助次兄榮之助次々に逝き、母も逝き、最後に父逝く、父は四谷暗闇坂の某寺に葬る。(水谷氏寺の名を記憶せず)

17●きいちやんといふ夏目先生の小學校時代の友達あり。きいちやんは私生児にして提燈屋の娘なり。(きいちやんのぢいが提燈屋だつた) 母と共に夏目の長屋に住み、紙商を營む。きいちやんの母に持参金附の入聟があつたので海運橋に出て商賣をやり失敗す。きいちやんは桑原と稱す。

18●夏目先生の父は放蕩児にして大助も放蕩児なり

19●夏目先生の母は女郎屋の娘にして、先生の父はそこへ(妻の實家)いつて遊ぶ。したがつて夫婦不和なり。先生の父は常に先生には母の實家が女郎屋たることを隱し質屋なりと稱す。先生幼年なれば遂にそれを信ず。先生の母は甞つて御殿に奉公せし事ありとの説あれど身分卑しき女郎屋の娘が御殿に上れる譯なし旗本の邸位へは奉公に上れる事もあらんも水谷氏は奉公云々に就きては少しも是を知らず先生は母に對してはよい感じを抱けり。

20●和三郎氏と水谷氏とは親友なり。和三郎氏は非もなし可もなし内場(うちば)な女性的な人なり大助氏は氣強き人にして、榮之助氏は才子なり。大助氏伊豆橋の福田氏に誘はれて柳橋に遊び、遂に藝妓といゝ仲になり放蕩児となる。大助氏は東京府へ勤め、飜譯官として、父の二倍位の月俸を得て居た。放蕩をしなかつたなら夏目先生等への義理がたちたるものなり。

21●和三郎氏結婚す。或る卑しき處へ奉公せる女を娶る。その親は代畫業を營み居れり。結婚後友達より妻が以前ある男と關係せしことありと聞き、嫌ひ出し家を外にし遂に離婚す。尤も家を外にせしはお松の手引で後に後妻となつた女が近所に住み戀々たる状態なればなり。後妻は山口大鐵といふ頭領の三男山口虎三郎といふ人がイケミノと云ふ女郎屋へ養子へゆきて儲けたる子(二女か三女)なり。これ現在和三郎氏の妻女にして小一郎、菊枝を生む。(菊枝は先妻の子たるやも知れず筆記不備にして此點不明なり、申譯なし、) 菊枝はいゝ子なりと。

22●和三郎氏の先妻離別後二十五歳にして死す

23●夏目先生その死を大いに悼む。且つその人格の高潔を賞揚す。 (全集第十二巻三十四頁子規宛の書簡を参照すべし) 先生は和三郎の先妻は惡阻が元で死せるものと思へり。これは和三郎が、離別せることを先生に隱し語らざりしため、先生は離別を少しも知らず、婚家にて病死せるものとのみ思へるためなり。然れども離別後病死したることは、事實なりと水谷氏は云ふ。

24●和三郎が先妻を嫌ひしは事實にて今回年譜作製の必要上小宮氏がその命日を照合せしも遂に回答來らず。

25●和三郎の先妻は十人並の容貌なり、後妻は美人にして艶つぽき人なり。

26●和三郎は夏目先生より八ツ年上なり。

27●夏目先生の御兄弟

大助(辰年)     榮之助(午年)    和三郎(羊年)    年子
久之助        金之助        房之助  五才にて死す

28●夏目先生の昔時の友達つきあひ至つてよしと。(中村是公氏賞揚す)

29●夏目先生が「養父(盬原)が女郎屋の留守番をしてゐる時代にその女郎屋へいつた記憶あり」と申されし事あり。

30●伊勢重といふ夏目の遠縁に當る者あり。

31●お久といふ者が夏目先生に無心を云ひし事あり。

32●夏目先生、女に對し脅迫勸念を抱く。

33●大學を出でゝ法藏院に假寓せしが其處の尼僧が嫌ひで我慢できず、折柄菅虎雄氏が世帯を持ちたればその離れへ轉ず。菅氏方へ轉居後も依然として法藏院時代と同じく 「女が追ひかけてきて困る」 との勸念續く。尚中村是公氏の話に依れば、風呂に入ると無暗に他人(ひと)がブン毆りたくなり、神經が狂つてゐると自稱す。先生の奥様の話によれば、他處から電話がかゝると大聲で何處からかゝつたといふ。
餘り困つて中村是公氏に頼み日光、館林方面へ旅行に連出して貰ひし事もありといふ。

34●大學を出ての頃 濱町近邊の待合の女将に惚れられる。女将、先生を口説いて待合を止めてもよいと云ふ。尚高等義塾の時代にも窓の下の女と云々の事あり。共に山川新(注: 原本のまま。正しくは 信)次郎氏がよく知つてゐるとの事

35●湯河原で女のために字に書いた事あり、 〔中村是公氏曰く〕 濱町の待合豐田の婆さんによく書畫を呉れた事あり。 (學校の先生時代に非ず松山へゆく以前)

36●夏目先生結婚當座奥様と情愛極めて細かなり。かつてその當時先生が奥様に向ひ「俺の處へこなければお前はどうしてゐる」と聞いたら「巡禮をして歩きます」と奥様が答へたりと。

37●熊本時代に夜寐る時奥様の身體を紐に括つて先生自身の身體に結び置きたることありと、これは奥さんがヒステリーで夜中外へ飛び出し川へ飛び込んだ事が一度あつたからの由。

38●夏目先生は勉強家で學校から歸れば書斎へ入つた切りなので、奥さんは少しはべたべたして貰ひたく思ひ、遂に神經衰弱となる。
夏目先生も神經衰弱から脅迫勸念を抱く様になり、時々變だと自稱す。

39●神經が鋭敏に働く人は神經衰弱になるは當然のことなり。先生の兄さんの云ふによれば先生はずつと以前からそんな氣味ありと

40●洋行中は全然女に關係なし。




(以上が資料(3)のすべてである)