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前回でも述べたが、3段階にわたる文書中(1)の残り8枚、すなわち(1)bの方は、(1)aの14枚に比べて、より短く簡略な記述であるが、(1)aにはない重要な情報を多数含んでいる。1枚目以外には数字がないので、残りには筆者が、保存されていたままに番号を入れた。その8枚目、8/8には「植村」の印が押されている。なお、6/8冒頭の対話風な記述部分、最初のx は水谷氏のことであろう。2行目は「存」のように見えるが、空欄にしてある。3行目の小は、小宮豊隆の可能性がある。
部分的に判読不能な箇所もあるが、以下詳述する。

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女上流には見えず
きいちやん小學校時代の友達、
ちやう灯(ちん)屋の娘 お袋が長やに住む。
きいちやんは私生児也 きいちやんのぢい
がちようちんや  夏目の長屋の紙や
商賣をしていたが(欄外:金を持つて)來たので海運橋に
でて(欄外:商賣をやつたが)失敗す。 桑原きいちやん
先生の育つ時代はれい落、困難
して育つ、

2/8
井戸側に倉(欄外: 小さき倉)あり、(一間半二間半の倉)
福田の親類が(盬原)
盬原の家で戸籍ごまかして長男とす
八百やへ里子へやりその後盬原へ
ゆく 盬原へゆくも夏目へ交際す
養父女をこしらへる 養母金をつれ
て夏目へくる 馬場下へ先生を
つれて住む(養母と實家を通ふ)
小さい時、チヤン、オツカアと稱す 禮
を知らず 馬鹿と思ふ

3/8
大道へねる  漱石の兄六十七 所
爲の爲、 (欄外:先生は)無口 教育惡し(八百や
や里子ばかりいつた關係か) 養母馬
馬下へ假住届、 二夫婦、三夫婦
あり 新宿より福田戻る 高田時
名主の爲 夏目にゐる大助(2)榮之(3)
助 房の助(欄外:五才死) 旦那死して七
四谷くらやみ坂下のお寺(寺名不明)
旦那最後に死してお氣の毒
夏目の女中と吉藏
(欄外)
お松 先代より女中
倉吉 下男
姦通  にんしん
馬場下 世帯 トビ
小頭
死す

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上野戦争場へ鐵砲玉を拾ひにゆく
(八九人)盬原は名主ならん(町かゝ
みをみよ)慶應明治時代のものも
あり(仙台にあり)明治後盬原へ
養子
ホーソー里子の(欄外:八百屋の前)時也  小さい時 (欄外:小宮氏)それは
盬原時代ならん  X氏もオーソー
佐々木吉蔵が八百屋へ世話す
(姉が夜でる筈なし) 吉藏が里子
のかあい (削除:奴) さうと告げる
(欄外)
源兵エ村の八百や(里子の先)
お松きりで夏目に女中なし
此の時代かたむけり

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滅亡時代よく存じます
めつ亡明治初年  伊豆倉や かいぱ
御用(商人) 店主 ほうとう 夏目の
処 借金、二三年頃 滅亡 先生生
後 僅かにして 滅亡  KO時代馬場

(中村) 夏目の家だ (欄外:坂下右の路下門内) (盬原の家に非ず)
 伊豆橋は福田
盬原は淺草  市ケ谷は夏目、

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x   和三郎ですが矢來におります
   矢來に聞いたら判るだらう
小  矢來は判らぬ

X  夏目 和三郎 存命中 旧ミノヤ
  大阪在住神戸にあり 夏目に路銀
  借用歸京

一橋中學へ通學 ひんこん 七八才位
知つてゐる 後 初壽町  明治 以下
名を受けられたのはよく知らず

7/8
夏目だけ姓あり
お松源兵衞村の八百屋の娘ならず
御新造存命中、 世滞持つて 夏目の
極く近く住む
お松の素性判らず(先代の御新造時代
から女中なり)
(欄外:金の助)母は御殿上る譯なし 貸座敷の娘故に
旗本位には奉公に上れるがそれは
水谷氏は記憶せず  母にはよい感じ
抱くと

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(欄外:牛込榎町)伊豆倉や(欄外:忠兵エ)(かいば御用)伊豆橋(福田)
(大宗寺の前 貸席) 後妻(削除)

伊豆橋の親族で夏目へ出入

たしか夏目 玄關の処に 住んでいた
人あり 記憶なし 好男子な
り盬原なるか知らず 玄關にゐた人
大助なるかも知らず  これをみた(追加:當時の)
X (追加:水谷)氏の年齢 九か十 位の時