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The Faerie Queene 編纂記――地に足を着けた英文学研究のために――
『英語青年』(2002年3月号)掲載文の校了本文
 
 Longman 社に代わる新しい出版社 Pearson Education から、 'Annotated English Poets' 叢書の中でも代表的な The Faerie Queene (以降FQと略記)の第二版が、叢書名や商標までを引き継いで出版された。初版(1977)はA.C. Hamilton 教授が、J.C. Smith の編纂・校訂になる Oxford English Text 版(1909) の本文に拠ってこれに詳注と解説を付したものであったが(スミス版は長らく定本とされ、いわゆる Variorum Spenser 全集版も事実上これを踏襲)、今回は日本人研究者3名を加えての全面改訂版である。ロングマン社が世界的な出版社再編の波にのみこまれて当初の予定より4,5年遅れの出版となった。
 ハミルトンさんについては、二十世紀後半のスペンサー学を長らくリードしてきた第一人者として日本の研究者にもよく知られているが、1990 年に膨大な The Spenser Encyclopedia (Toronto) を完成されたあと本書の改訂をご自身のスペンサー研究の総決算と位置づけておられた。このため今回改訂された解題と注解は、同百科事典および初版以降の膨大な文献類をことごとく参照した上での全面的書き直しであり、付属する 'Letter to Raleigh' や 'Commendatory Verses' などにも今回新たに解説と注解が付された。特筆すべきはこれに福田昇八教授による詳細で工夫に満ちた 'The Characters of The Faerie Queene' すなわち「登場人物索引表」が新たに加わったことである。129人に及ぶ登場人物の言動が順番に列記されて(他に142人の参照項目あり)、この大作においても誰がどこで何をするかが一目で分かるようになっている。800ページに及ぶ分厚い本の巻末に置かれた10数ページではあるが、本書の読者が最も参照する箇所だといってよい。三度目のFQ翻訳に挑戦し世界的にみてもその内容に最も精通する学者によるこの人物案内は、ハミルトンさんの注解・解題と三位一体をなしてFQの読者を益し続けるであろう。スペンサーの研究と翻訳に一生を捧げてこられた両学者の英知とチームワークの結晶である。
 この注解と索引が拠った本文は、鈴木紀之教授と私が1994年にハミルトンさんと当時のロングマン社から委嘱を受けて新たに編纂・校訂したものである。スミス版に代わる新しいスタンダードとなる見込みで、そのためスペンサーの専門誌Spenser Review は注解と本文を別々に書評する予定であり、その他英米の各紙・誌にもさまざまな観点からの紹介・書評が載り始めている。本誌からは、私へ執筆依頼があったので、以下に編纂・校訂の経緯を述べ、あわせて本文の問題一般について記すことにしたい。
 なお新版に収録の Textual Introduction は一般読者を念頭に可能なかぎり平易に執筆した。本論とあわせてお読みいただきたい。
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 ピアソン・エデュケーションの編集担当から送られてきたAdvance Copy を現実に手にした時、私はふと、自分がまだ英文学を学びはじめたばかりのころある高名な英文学者が「日本人がイギリスの文学を読むことは果たして可能か」と自問されていたのを思い出した。この謙虚さ・真摯さは、その後私の第二の研究課題ともなった英文学者夏目漱石の生き方にも通じるところがあって、私の印象につよく残っていた。
 にもかかわらず私は今回、そうした謙虚さとは裏腹の僭越な行為におよんだのではなかったのか。外国文学研究者でありながら、英国の文学を「読む」どころかこれを「つくる」側に立ったのだから。これまでにも日本人が英文学作品の編纂・校訂を手がけるということはあった。がそれらはおおむね限定された読者を対象とし、発行部数も少なく、一般になじみの多い作品ではなかった。今回は意味が違う。英文学を代表する 'great seminal masterpiece' の本文編纂を英文学の代表的叢書において行うのである。しかも長らく定本とされていたスミス版に取って代わり、前半部 Books I-III においては伝統的な「底本」の変更を断行してまでの新本文である。この結果FQは、今後とりわけ Books I-IIIにおいてさまざまな読み直しが行われることになろう。これを快挙といっていいのか?否、外国文学者研究者として踏み越えてはならない一線を越えてしまったのではないのか。
 私がこんなおもいをしても、次から次へと流行し消えていく種々雑多な文学研究法を追い回し、W.W Greg らに始まる伝統的・正統的な英文学研究法の勉強を止めてしまった人たちにその意味がわかるであろうか。編纂・校訂とは何をどうすることなのか、観念的にはともかく本当のところは何もわかっていないようだし、わかろうともしていないからである。この種の仕事を特殊扱いしたり、時代遅れだとか、(英)文学研究・教育には関係がない、などと考える人すら現実に存在する。こんなことでは重厚であるべき日本の英文学研究・教育に未来は期待できない。
 編纂・校訂者とは、ある意味で一般読者以上の読者であり作品の受容者だといえるが、第一義的には作者や版元・印刷所その他もろもろのメディア・コンテクストと一体となった「合作者」、すなわち一般読者へ作品を提供する側に立つといえる。今回のわれわれのように、定本であったスミス版に取って代わり Books I-III の底本までを変更しようとする編纂・校訂においてはとりわけ、私たちが果たす役割は大きくなる。作品全体の内容の把握から細部の根本研究に至るまでトータルにして厳正な目配せが必要で、これには長期間を要し、将来をしっかりと見据えた戦略・研究計画が必要となる。これほどの大作の編纂・校訂ともなれば単独で行うのは不可能に近く、信頼に足るパートナーを見つける必要もある。私にとって鈴木さんは一心同体であり、どちらを欠いても今回の仕事は仕上がらなかった。さらに、できれば原典をいつでも手にできる環境があれば理想的である。FQの版本は出版当時から大切に扱われてきたために現存部数が比較的多く、私は幸い保存の良好な版を各一部オークションで入手できた。
 われわれが従事してきた編纂・校訂の過程は以下の(1)、(2)に大別できるが、これを前半部の Books I-III の問題点を中心にもろもろの観点から述べてみたい。
 
(1)Books I-III において底本を第二版(1596)から初版(1590) へ変更しようとする以上、両版本の多角的観点からの比較考察が必要となる。底本を変更するにたる説得力ある証拠の収集・提示、そして論証。さらには、重要叢書の本文となることがあらかじめ決まっている以上、出版以前に英米のスペンサー学界やしかるべき Bibliographers らとの意見交換を充分に行い大方の支持を取り付けておく必要がある。私たちが日本人であるなしにかかわらず。
 Books I-III の底本に初版を選ぶに際しては、以下の@、Aに述べるように今日の文学受容の傾向と書誌学的実態の双方に配慮した。
@スペンサー当時の印刷・出版状況、読者状況、初版と第二版の受容状況、の調査と分析。現存する当時のもろもろの資料を内的、外的に考察した結果、1596 年に 'Second Part' すなわち Books IV-VI の初版が出版される際にはまだ6 年前のBooks I-IIIの初版に在庫があり、第二版を出す主目的はこの在庫の補充であったと推定できた。第二版では、初版にあった 'Letter to Raleigh' や献呈詩等の大半が省略され、同じく初版に添付で作者自身がかかわったはずの「正誤表」も不思議なほど軽視されているが、これはこのコスト節約型出版の観点からおおむね説明がつく。これに対して初版は、まだBooks I-III のみの出版ではあったが、当時から大きな話題となり、FQはこの時点で成立したといえる。第二版に比べて初版が与えたインパクト、歴史的・出版メディア史的意義ははかりしれない。
Aもう一点は版本の書誌学的実態の解明である。従来の校訂本、スミス版や Variorum 版は、第二版の方をスペンサーの手入れ・丁寧な校正を受けた信頼できる改訂版であるとして底本に選んだわけだが、われわれの20数年前からのコンピュータ分析を含む両版の詳細な比較校合によると、第二版におけるスペンサー自身の大きな手入れは Book III 末を除くとほんの数カ所にとどまり、しかもスペンサー自身が実際の印刷に立ち会うことも、みずから直接校正を行うことも一切なかった。逆に第二版の本文には初版の誤植を正す以上に新たな誤植を増やす実態すら判明した。
 私は、この点をすでに1981年の論文で示し、佐藤治夫、松尾雅嗣、高野彰氏らの協力を得て出版した Comprehensive Concordance (1990)(通常の用語索引というよりもHoward-Hill: Shakespeare Concordance 流の本文研究用 'Textual Concordance')の序論やTextual Companion (1993) においてその点をさらに具体的に展開した。Books I-III において初版と第二版との間には細部を含めると8,000箇所を越える異同が存在する。同一版内にも印刷中に発生するいわゆる Press Variants が存在するので、われわれはVariorum 版の実質二部の校合に比して十数部を詳細に校合した。これらのデータは英米のスペンサー学者やBibliographers らに示し意見交換を行ったが、底本の変更に異議を唱える学者は一人も出なかった。今もバイタリティー溢れる J.R. Brink 女史などは、われわれにもろ手をあげての賛成で、Textual Companion を大学院の教科書代わりに使ってくださるほどであった。
 
(2)Books I-III で新たに底本となる初版の本文は、これまで学問的な校訂の手が入ったことのない「未踏峰」、一般読者にとっても未知の本文である。それゆえ校訂の初期段階では、他の版のことをまったく念頭に置かず頭を真っ白にして本文を読み、その「世界」を把握する必要があった。その結果、たとえばこれまでの校訂本のように9行からなるスタンザを機械的に一単位とみなし、底本の有無にかかわらず9行目末に自動的にフルストップを置くのは必ずしも適切でないと気付いた。底本の9行目末がコンマやセミコロンになっている場合、次への継続性が認められれば底本のままとした。
 次のステップは第二版との比較においてさらに深く読み進めることである。明確に意味の違いを生じている箇所だけでも数百箇所あり、どちらか一方の版にしか存在しない箇所も少なくない。校訂本は復刻版ではないので、すべて底本どおりというわけにはいかない。第二版その他の版の異同をどのように取り入れ、どう排除するか。ここが校訂者の腕の見せ所でもある。こうした際の判断の根拠の一つとなるのが植字工分析を含む詳細な印刷過程の解明であり、これは英米Bibliographyの独壇場である。本初版の印刷過程は私が調べたかぎりにおいてエリザベス朝の印刷物中でもユニークで、それ自体が印刷文化史的興味をそそる事例となっている。
 さらに私は、スペンサーが比較的遠い時代の英国人ではあっても同じ人間・作家ではあり、しかもその情報伝達手段はわれわれと同じ活版印刷術であるとの立場から、身近な漱石の本文研究を私なりに徹底的に行い、英国人とはまた別な視点からスペンサー本文の「もとをただす」努力につとめた。私は日本で漱石本文の専門家のように見られているが、スペンサー本文に対する種々な仮説を親しい漱石の本文を通して確認してみたいというのがそもそもの動機であった。私はこれによってBibliography理論の健全さを肌で感じることができたし、スペンサー校訂への自信も深くできた。ともあれ本文の確定は一筋縄にはいかず、広い視点と common sense を必要とする。古典学者・詩人 A.E. Housman も次のように述べている。
 
A textual critic engaged upon his business is not at all like Newton investigating the motion of the planets: he is much more like a dog hunting for fleas. If a dog hunted for fleas on mathematical principles, basing his researches on statistics of area and population, he would never catch a flea except by accident. They require to be treated as individuals; and every problem which presents itself to the textual critic must be regarded as possibly unique.(1921)
 
 特記しておきたいことは、今回のわれわれの場合、既成の本文の提供者ではないということである。ちょうど演劇の舞台台本が稽古の段階で練られていくように、注解者ハミルトンさん、福田さん、その他英米の友人学者らの「監視」の中で最終的に本文が定まっていく。昨夏の最終点検段階におけるハミルトンさんとのやりとりはとりわけ印象的であった。スペンサーの泰斗とはいえ、否そうであるだけになおさら、従来の本文を捨てがたくも感じられるハミルトンさんゆえに、新本文細部への説明を求める矢のような e-mail が日によっては24時間絶え間なく鈴木さんと私へ来る。われわれは分担してなぜそうなるのかを順々に説明する。80歳というご高齢でありながらもものすごい集中力と理解力を示されながら、しかしわれわれ若輩の持ち分をしっかりと尊重してくださる。結果的にこの段階で本文を変えるということはなかったが、これによって双方の信頼感はさらに深まり、われわれはハミルトンさんの度量の広さをあらためて感じた。ここには親しい中にも真剣勝負の世界があり、密度の濃い国際交流があった。こうした有様を(英)文学専攻の院生らにリアルタイムに伝えてやればどれほど刺激になったであろうか。
 
 ここで(1)@に関連して述べておきたいことがある。グレッグらに始まる英米Bibliographyの本質を今に伝える旗手の一人 D.F. McKenzie が「書物史」の本場とされるフランスへ大きな影響を与え得たように、このBibliography はフランス流のいわば「外からの光」による考察と、分析・記述書誌学的手法によるいわば「内なる光」からの考察とを併せ持ち、より深い理解を可能にしている。 
 編纂・校訂は 'practical work' である以上時代のneedsに対応する必要があり、その理論も時代の制約を受けざるを得ない。校訂とはそうした宿命にあり、われわれの本文も例外ではない。しかし根本的研究、すなわちグレッグならA Bibliography of the English Printed Drama (1939)、Fredson Bowers なら Principles of Bibliographical Description (1949) などには古さなどみじんも感じられない。Bibliography は不幸にして日本で「書誌学」と訳され、そのためにいまだにいろいろと誤解を受けているが、正確なところは、グレッグが1912年に 'A study of transmission not limited to books but to the transmission of all symbolic representation of speech or other ordered sound or even logical thought' と定義したように、今流に言えば「情報(伝達)学」であり、近代情報学の嚆矢である。「時代」のコンテクストを分析的に解明するための強力な武器であり、グレッグ当時よりもむしろ今日の文学研究・文化研究においてより大きな役割を果たすといえる。
 猫も杓子も「テクスト、テクスト」と唱え、それが最先端だと勘違いしている人も多いようだが、グレッグらはこうした概念を含む深い世界をすでに二十世紀初期において見据えていた。例えば彼らの業績の最大のもので今日でも最重要な英文学研究文献STC (1926)を見てほしい。(フランスにはいまだにこの種のコンセプトの文献がないようで、日本では多々不備があるようだが『国書総目録』がSTCをヒントに誕生している。)
 そのSTCをじっくり見てみれば天才的Bibliographersらが何をめざしていたか端的に理解できる。STCにおいてはシェイクスピアだ、スペンサーだといってその版本を他より大きく取り扱うことはない。今ではマイナーとなったパンフレット類にも平等な扱いを与えている。作者順に記載されてはいるが、これを出版年順、出版所順、印刷所順、その他マケンジーが強調する 'concurrrent' その他の観点から見ることも可能になっている。つまり本書が指向するのは出版コンテクストの詳細な記述であり、今流にいえば「書物史」の世界である。STC は二十世紀の早い段階で英国の 'history of the book' を「読む」ことを可能にしたということである。
 それゆえSTCは編纂者や出版史研究者だけの道具ではない。英文学研究者は、こうした基礎的文献を単に閲覧するだけではなくじっくりと「読む」必要がある。その際可能なかぎり多くの原典に触れてほしい。原典の「書誌学的」触れ方については拙論「英文学専攻者のための書誌学教育」(1983)を参照されたい。
 新種の文学理論を追うのには熱心でも、STCを見たこともない人がいたり、この方面の情報をセカンダリーな研究書類に頼っているようでは、本格的な研究にはなり得ない。流行の文学理論や研究法に興味を持つのが悪いということはないが、地に足を着かせるためにはBibliographyの考え方を同時にしっかりと学び、情報伝達に対する認識を正確にする必要がある。現状では空中楼閣的「研究」がいかにも多い。
 
 最後に造本過程にも言及しておきたい。本文は私から、解題や注解はハミルトンさんから別々のディスクで出版社へ提出され、それをコピーエディターがわれわれの指示に従いページごとにレイアウトする。インターネットやe-mail時代においてもゲラは存在し、いうまでもなく膨大なものであるが、ハミルトンさんと私へ各一部が送られてくる(私はこのコピーを福田さんと鈴木さんへ送る)。点検をはじめるとさあ大変、活版時代には生じないソフトからソフトへの変換ミスやコピーエディターらによる人為的ミス、その他指示した原典の飾り文字を手元の類似物でごまかそうとした出版社の「手抜き」すら見つかった。造本の「司令塔」をつとめる私のところには、ハミルトンさんだけでなく出版社の編集担当からも疑問点をただすe-mail が殺到。これにはしかるべき用語を用いて迅速に回答しなければならない。どれほど長い時間をかけて書いた本でも、最後の肝心の造本過程は長くて数ヶ月、それは一瞬のうちに終わるといってもいい。著者がカナダと日本におり、出版社がロンドンといった文字通り国際的な出版物においてはとりわけ、著者に本造りの知識・経験がないと対処しきれない面がでてくる。それでもいくつか問題を残した。将来的に英米での著書出版までを念頭に置きたい人は、専攻が何であれ若いうちに出版メディアにかかわる綜合的な知識を身につけ、出版社の編集者をリードできるくらいになってほしい。今回のわれわれの仕事がそのような気運を促す一助になれば幸いである。(daytoday@js3.so-net.ne.jp https://www.hiroshiyamashita.com/)(書誌学者)