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『芥川龍之介全集(あくたがわりゅうのすけぜんしゅう)』の本文(ほんもん)
「全集」とは
 日本近代文学の「(個人)全集」には、書簡や日記、断簡零墨の類までを収めることが多いが、これは外国のとりわけ編纂・校訂の先進国である英米の文学全集と比べても特異である。そもそも英語には日本のこの「全集」に相当するような語は存在しない。英米の「全集」の書名は通常Works of (作家名)となるが、この "Works" は "Works of Art" のことであって、収録するのは本文の校訂を経た〈作品〉だけである。ときに書簡を加えるような「全集」もあるが、その場合にはWorks and Letters of (作家名)と特記する。しかし、そもそも書簡や日記、断簡零墨の類は本文の校訂など必要としない、というよりも極力原形のままを提示すべき〈資料〉(Document)なのであるから、英米ではこれらを出版する場合には通常写真版に翻刻や解説を添えた別形態の出版物となる。万事理詰めな英米の一流全集に比べて、『漱石全集』(岩波書店の各版)に代表される日本の文学全集はおおらかであるが、研究者ではない一般の読者にとってはこの方が何でも手軽に見られるという点で便利ではある。
 芥川龍之介の全集としては、一冊本の『芥川龍之介集』(新潮社、1927・9・12)や筑摩書房版その他も存在するが、作者没年の八巻本からはじまり数回の改訂を経て今日に至っている岩波書店の『芥川龍之介全集』が代表的である。
 その最新版(『新全集』と略記)全23巻(1995~98)は、「内容見本」によると、「十八年ぶりに全面的に見直され」、「最新の研究成果」によって「本文校訂の根本的な検討」を加え、さらに「新字体・ふりがなにより、芥川を楽しく読む」等とうたわれている。はたしてそのできばえはいかがであろうか。
「編年体」(?)という特異性
 「十八年ぶり」とあるのは、前の菊判の全集(全12巻、1977~1978)に対してだと思われるが、それより小型になった今回の四六判はたしかにハンディーで使いやすい。しかし主要部分の中身を比べてみると、「新字体」になっている点を除けば同菊判全集と特別かわりばえはしないように思われる。
 『新全集』で最も印象的なのは、小説、翻訳、1ページ程度の詩、さらには編集後記の類までを区分しないで発表順に収録・掲載するという、前の菊判全集の特異な「編年体」(?)をさらに一歩押し進めている点である。このような編集方針は英米の全集では絶対にありえない。近代文学の研究者間に、「個人全集とは、単なるテクストデータではなく、伝記である」、「全集とは、作品よりも作者という大きな物語を読む行為である」といった考え方があるようだが、当全集の編集方針とこのコンセプトには強い関わりがありそうである。
 上の菊判全集と同様に『新全集』でも名誉ある第1巻冒頭を飾っているのは「バルタザアル」という見慣れない「作品」であるが、どんな内容なのかと見てみると、アナトオル・フランス(1844~1924)の作品を芥川が訳したもの(英訳からの重訳)であった。しかも驚いたことにその訳文は、初出時の『新思潮』(1914・2・12)発表の本文ではなく、12年も後に芥川が大幅に改稿した『梅・馬・鴬』(新潮社、1926・12・25)から取られていた。「同じ作品」なら本文がどれほど違っても、時間が経ていても、冒頭に置いていいということなのか。これで「伝記」になるのか。
 三番目の短編集『鼻』(春陽堂、1918・7・8)に収録された「羅生門」(初出は『帝国文学』、1915・11・10)の大幅な改稿は、「偸盗(『中央公論』、1917・4・1)を無視しては考えられないと主張する研究者が少なくない。しかし前の菊判全集と同様『新全集』においても、この『鼻』版の本文が初出の発表時点に置かれている。
 「個人全集とは伝記である」「作品よりも作者」といったコンセプトはどこへ行ったのであろう。こうした特異な「編年体」を正当化するのであれば、「バルタザアル」であれ「羅生門」であれ、現在の収録位置には初出の本文を置き、『梅・馬・鴬』版や『鼻』版の本文はそれが出版された時点に置くしかないはずである。
 複数の本文を提示する余裕がなければ、編者の判断でより重要と思われるどちらかを選びそれをその発表時点に正確に置く。他の本文については注釈においてしかるべく断る。
 「羅生門」について別な視点からいえば、さまざまな書誌学的証拠から推定して、『鼻』版に生じている本文異同には作者による改稿の結果だけではなく、明らかに印刷・校正の不備によると思われるものが多いという問題がある。このような場合、『新全集』のようなコンセプトの編年体で、「伝記」「作品よりも作者」――つまりは芥川が読者に読んでほしいと願った本文の提示――を重視するのであれば、誤植の多い『鼻』版をそのまま全集の本文として定着させるわけにはいかないではないか。せめても、芥川が『鼻』版出版に際して印刷所へ提出した最終的(意図を反映した)手入れ原稿(現存しない)の姿を、書誌学的考察を積み重ねることによって、可能な限り再構成してみる必要があろう。これは英米における「グレッグ底本理論」にもつながる重要なポイントである。
 芥川の代表的な新聞小説、「戯作三昧」(『大阪毎日新聞』夕刊、1917・10・20~11・4)、「地獄変」(『大阪毎日新聞』夕刊、1918・5・1~5・22)、「邪宗門」(『大阪毎日新聞』夕刊、1918・10・23~12・13)においてすら、作者の後の手が多少入ったという理由だけで、作品の掲載場所は新聞初出の時点のまま、後の単行本『傀儡師』(新潮社、1919・1・15)の本文で差し替えている。新聞小説の場合はとりわけ、同じ初出でも雑誌とは比較にならない多くの人の目に触れたはずであり、このような歴史的な本文が特別な説明もなく一単行本の本文に取って代わられるというのはなかなか合点がいかない。
目次とふりがなの問題
 『新全集』の目次を見ていると、目次とはいったい何なのかと改めて当惑してしまう。第1巻には、冒頭の「バルタザアル」以外にも馴染みのない「作品」が多く、その結果「芥川を楽しく」読みたい一般読者は、処女作(?)と思われていた「羅生門」の前にこれほど多くの「作品」があったことにまず驚く。しかし中を開いて確かめてみると、「作品」とは名ばかりの数行か1ページ程度の書評や翻訳であったり、日記の一部や編集後記の類であったりする。しかしこのような情報は目次からは一切得られない。
 そもそも目次とは、 Contentsすなわち「本の中身」のことであり、実用上の必要があって誕生したのである。誰にでも馴染みのある作品ばかりならまだしも、これほどに雑多なものの集合体であれば、目次は簡略化しないで詳しく示さないとその機能が果たせない。「目次」は形式的に添付される飾り物であってはならない。
 しかも目次のタイトルの中にはどう読んでいいかよくわからない「作品」が目立つ。「新字体・ふりがなにより芥川を楽しく読む」といった一般愛読者向けのPRはどうなったのであろうか。「注解」や「後記」の中まで探しても、どこにも読み方が示されていないタイトルが多かった。第1巻の目次には36点ほどのタイトルが収録されているが、芥川の専門家でもこれらすべてを「正しく」読めないのではないか。
 ここらあたりにも、洋書の表面だけをまねて本作りを行ってきた日本の出版界の一面が見えている。
おわりに
  初期の『芥川龍之介全集』10巻本(1934~35)をみてみると、『新全集』1巻冒頭の「バルタザアル」は同巻の「春の心臓」などと共に9巻目の「翻訳」の部分にまとめられており、しかもその目次には原作者名も示されている。ちなみにこの巻は「詩歌」「翻訳」「未定稿・断片」と区分されている。『漱石全集』にしても、長編、小品、評論等と区別して収録されているが、これがまともなやり方である。『新全集』は、「十八年ぶりの全面的見直し」というが、この点では見直しどころが全集編纂の進歩に逆行し、使いづらい改悪版となっている。
 『新全集』が現行のような極端な「編年体」をとるのは、「個人全集とは伝記」、「作品よりも作者」といったそれなりに説得力のある「編纂哲学」に従ったというよりも、事務的・機械的にまとめられる便宜性の方を優先した結果ではないであろうか。さもなくばこのような中途半端な形にはならなかったはずである。本文の編纂・校訂とは、決して機械的にできるものではなく、編者の深い読み・「創造性」が必要なのだが、同全集のこのような無神経な「編年体」のあり方を目にすると、微妙な本文の確定にまではとても期待がつなげない。同全集は全体としてのまとまりを欠いた多くの問題を内包しているようで、それは「芥川の本文(校訂)とは何か」を学問的に問う以前のレベルにあるようだ。(山下浩)
〈参考文献〉
山下浩「本文批判の問題」『夏目漱石事典』(學燈社、1990・7・10)、『本文の生態学――漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部、1933・6・18)、「解題」『漱石新聞小説復刻全集 第11巻』(ゆまに書房、1999・9・24)、「パネルを終えて」『日本近代書誌学協会会報 第6号』(日本近代書誌学協会、1999・11・20)、「漱石の雑誌小説本文について」『漱石雑誌小説復刻全集 第3巻』(ゆまに書房、2001・1・24)
脚注
グレッグ底本理論(Rationale of Copy-Text) 20世紀の英米で最も影響力のあった校訂理論で、とりわけアメリカ文学においては19-20世紀の主要文学全集の過半がこの底本理論に拠るかそれを意識して編纂・校訂されている。グレッグやその後継者バワーズらの見解を、原文なしの日本語で簡単に紹介するのは誤解を生じる恐れがあるが、『新全集』に即していえば、印刷・出版された版の本文よりも、そのもとになった作者の最終的手入れ原稿を復元する考え方だといっていい。
読み方が判然としないタイトル 第1巻に収録の「作品」では、「翡翠(かはせみ)」には本文部分のタイトル(英語では head title という)にルビがふられているが、「紫天鵞絨」、「客中恋」「砂上遅日」「酒虫」「薄雪双紙」「手巾」などにはどこをさがしてもルビがなく、どう読むのが正しいのか判断に迷うところである。