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『産経新聞』【斜断機】漱石全集への疑問 [1994年12月08日 東京朝刊]
 
【斜断機】漱石全集への疑問
[1994年12月08日 東京朝刊]
 
 
 岩波書店の新『漱石全集』は十一巻まで出たところですが、この全集には問題があるらしいと知って驚きました。「漱石研究」第三号(翰林書房)のインタビューで筑波大学助教授の山下浩さんが根本的な疑問を呈しておられるのです。何しろ「ちゃんとしたものになるとは考えられず」「悪影響があるとすら懸念して」「出版を十年くらい先まで延ばすように」岩波へ手紙を書いたとのお話ですから、半端じゃありません。
 山下さんによれば、今回の全集には「編者の明確な意思表示・哲学」が欠け、「自筆原稿や初出本文という特定の本文をしばしば過度に重視して機械的に本文を確定」する「逃げ」の姿勢が感じられるとか。例えば第二巻の『薤露行』一四八ページを見ると、「高く頭の上に×げたる冠」の「×」の部分が空白になっています。これは初出の「中央公論」に欠字があったためですが、筑波大学生が各地の図書館を調査したところ、この部分がはっきり「捧」と印刷されている「中央公論」も見つかったというのです。山下さんは漱石の原稿であれ「重要な資料」でしかないとのお説で、『坊っちやん』の原稿には高浜虚子が手を入れたことに触れておられます。
 まるでミステリーのように面白く、初出や再版を本文確定に使うにはそれの印刷所や文選工・植字工を調べる必要があるとか、編者は「中味にコミット」しなければならないとか、お話は縦横に進みます。で、そういう地道な「本文研究」をする人がもっと出るべきなのに猫も杓子も批評を書きたがる、と山下さんは言い放ち、聞き手の小森陽一・石原千秋のお二人を一瞬困らせておられます。
 山下さんのご発言には硬直リゴリズムの匂いもしますが、それが学問というものなんでしょう。作品とは何かをめぐって論争が起こることを期待します。全集を出すなんざ十年早い、と天下の岩波がバッサリやられたんですものね。(恵)