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'Soiled fish of the sea'
 
「誤植の美学」の古典的な例がハーマン・メルヴィル作『白いジャケット』(White-Jacket, or the World in a Man-of -War, 1850)の中に出てくる。
 以下は、同小説の結末に近い九二章「ジャケットの最後」からの引用である。引用は、長らく定本とされた Constable 版(Russell & Russell 社のリプリント版あり)からであるが、下線部の語 soiled に注目されたい。和訳は坂下昇『メルヴィル全集』(第六巻、国書刊行会)からである。
 
As I gushed into the sea, a thunder-boom sounded in my ear; my soul seemed flying from my mouth. The feeling of death flooded over me with the billows. The blow from the sea must have turned me, so that I sank almost feet foremost through a soft, seething, foamy lull. Some current seemed hurrying me away; in a trance I yielded, and sank deeper down with a glide. Purple and pathless was the deep calm now around me, flecked by summer lightnings in an azure afar. The horrible nausea was gone; the bloody, blind film turned a pale green; I wondered whether I was not yet dead, or still dying. But of a sudden some fashionless form brushed my side - some inert, soiled fish of the sea; the thrill of being alive again tingled in my nerves, and the strong shunning of death shocked me through.
 
(海に突入した瞬間、僕の耳の中で雷霆(いかづち)が轟(とどろ)いた。僕の魂が目から飛び出してきたような感じがした。海に当たった打撃で身体は反転したらしく、僕は足を先にして、やわらかい、ふかふかとした、泡沫のような安らぎの中を沈んでいった。どこかの潮流に押し流されているようで、夢幻の境に僕は身を任せ、沈んで沈んで、山を滑り下りるように沈んでいった。紫に映える、道なき深遠の静寂がいま僕をとりかこみ、遙かかなたの、紫紺の虚空(こくう)には夏の稲妻が閃(ひらめ)く。あの恐ろしい吐き気は去った。血ばしった、盲いた膜もあわい緑に変わった。おれはまだ死んでいないのかな、それともこれから死んでゆくところかなと僕は訝った。だが、突如として、ある形なき異象のものが僕の脇腹を擦って通った――ある無為の、______――生きていることの戦慄がまたも僕の神経をジャランジャランと鳴って走り抜け、死を避けたいという強烈な衝動が僕を震撼させた。)
 
 この小説は、「白いジャケット」と呼ばれる主人公を通して物語られるが、引用箇所は主人公が檣頭(しょうとう)、つまり帆柱の先から百フィート下の海中へ転落する際のものである。印象的な箇所で、上の訳書添付の解説において池田浩一氏も次のように述べている。
 
 この檣頭からの落下という事件は、他の船であった実話の報告(一八三〇年出版)を踏まえているが、原典の文章が単純なスタイルであるのに対して、メルヴィルは非常に感覚の豊かな筆致で描いている。檣頭からの墜落の描写は、『白鯨』の三十五章「檣頭」で、眼下の波の中に己の姿を見失い、自然と一体化したかと錯覚して落下して行く男の姿に重なり、メルヴィルがこのイメジャリーに取り憑かれていることを感じさせる。しかし『白いジャケット』の場合は、檣頭からの落下そのものよりも、一旦水中に沈み、殆ど死を体験しながらも、ジャケツを切り開いて、辛うじて生の世界に戻るという、多くの論者が指摘するところの、浸礼と再生のイメージが大きな意味を持っているといえよう。
 
 ここで注目されるのが、引用下線部 'soiled fish of the sea' の表現である。海中にもかかわらず「よごれた」とはどういうことであるのか。この印象的な表現について、F.O. Matthiessen はその大著、American Renaissance Art and Expression (Oxford, 1941, pp. 391-2)において、「メルヴィルでなければ不可能なイミジャリーでありメルヴィル作品において最もすぐれた部分の一つである」、等々と長々述べ、絶賛している。さわりの部分を以下に引用する。
 
This illusory calm is built up by resourceful gradation in his verbs of motions, by contrasting the the crashing impact with the subsequent soft gliding. The colors, too, are no longer the bloody film of nightmare, or the white icy absence of feeling, but a lovely green, a purple that seems to shade into the azure of a summernigh's sky. But then this second trance is shattered by a twist of imagery of the sort that was to become peculiarly Melvill's. He is startled back into the sense of being alive by grazing an inert form; hardly anyone but Melville could have created the shudder that results from calling this frightening vagueness some 'soiled fish of the sea.' The discordia corcors, the unexpected linking of the medium of cleanliness with filth, could only have sprung from an imagination that had apprehended the terrors of the deep, of the immaterial deep as well as the physical.
 
ところがその後 G. Thomas Tanselle らによって厳密な校訂を経て編纂された Northwestern University Press 版(CEAA, Center for Editions of American Authors) を見ると、この箇所は
'coiled fish' となっている。旧全集の 'soiled' は誤植だったのである。メルヴィルが書いたのは、単にとぐろを巻いた魚、イカとかタコのことで、作者はそれ以上の深い書き方をしているわけではなかった。印刷所の植字職人とこれを見逃した校正者の功績がまことに偉大だったのである。
CEAA は 'Author-centered conception of editing' であるので、この全集においては誤植と判明したものを正すのは当然であるが、しかしこれが本文校訂の方針のすべてではない。現実に長らく読者の目に触れ受け入れられてきており、しかもその方が文学的にすぐれた「読み」と思われるような場合は、それがたとえ作者の書いたものと異なっていても、なんとか生かしたいと思う場合もあり、このような方針の本文も正当化できる。
但しこのような「読み」を一箇所でも採用すれば、それ以外の箇所についても同様な方針をとり、本文全体に整合性を持たせる必要があるのは言うまでもない。こうした方針によった本文は 'Socialized Text' といっていいが、しかし、この種の本文の確定に整合性を持たせるのは、実は意外にむつかしいのである