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一般の方が今見るのはむつかしいが、藤田三男さんらが編集したリョービのPR誌、『アステ・ASTERISK』(No. 6, 1988) は「校正」を特集している。その中には詩人、大岡信さんの「校正とは交差することと見つけたり」という文章が載っていて、以下のような箇所がある。
 
 むかしマリリン・モンローという女優がいましたね。私は彼女が好きでしたため、彼女が死んだ時は可哀想でならなかった。ベッドの中で裸で死んでいるマリリンが発見されたのは一九六二年の某日だったが、私は当時自分も同人の一人だった詩誌「鰐」の終刊号(一九六二年九月刊)に、「マリリン」という追悼の詩を発表した。かなり長い詩だったが、その最後の部分は次のようになっていた。
 
君が眠りと目覚めのあわいで
大きな回転ドアに入ったきり
二度と姿を見せないので
ドアのむこうとこちらとで
とてもたくさんの鬼ごっこが流行った
とてもたくさんの鬼ごっこが流行ったので
君はほんとに優しい鬼になってしまい
二度と姿を見せることが
できなくなった
そしてすべての詩は蒼ざめ
すべての涙もろい国は
蒼白な村になって
ひそかに窓を濡らさねばならなかった
 
   *
 
マリリン
マリーン
 
ブルー
 
 
 この詩は最後の三行が書きたいばかりに、長々と前置きを書いた詩じゃないのか、などと冷やかされたりしたが、もちろんそんなことはなかった。しかしそれは今問題ではない。ここでの話題は誤植のこと。
 「すべての涙もろい国は」という一行が問題の所なのです。すなわち私の元の原稿では、ここは「すべての涙もろい口は」となっていたのである。ところが、おそらく口という字を国という字の省略形と植字工が早とちりしたのだろう、ゲラ刷りでは「国」になって出てきたのだった。私はすぐにこれを「口」に訂正しようとしたが、危機一髪、「国とした方が面白い」ということに気づき、あわてて赤を入れるのを思いとどまったのである。
 原稿では、次行の「蒼白な村になって」というところも、少なくとも最初「村」ではなかったはずである。今では元の形が思い出せないが、前行に「口」とあったわけだから、次の行では「唇」とか何とか、ありふれた対応関係の語が置かれていたのではあるまいか。しかし、いったん「すべての涙もろい国は」という誤植を生かすことにした以上、続く行の文句もそれに合わせて変更しなければならなかった。「村」が出てきたのはそのためである。
 「国」とはずいぶん大げさな、と思う人もいるだろう。しかし私としては、わがいとしのモンローを追悼する以上、その位大きく出ても決して不当ではないとその時感じたのだった。そしてそれが「誤植」という偶発的事件によって与えられたアイディアであったのを、むしろ天の意志とさえ感じたのだった。この感じは今でもおぼえているが、決して誇張ではない。詩人などいうものは、要するに天からボタモチが降ってくるのを心ひそかに待っているお乞食さんなのである。
 こんな話は、校正の専門家からすれば、何を馬鹿な寝言を、と一笑するしかない話だろうが、私思うに、すぐれた校正者で、原著者の文章をわざと「誤植」(原著者から見て)してやりたい思いにかられた経験のない人はいないだろう。すなわち「校正」とは作者と校正者の「交差」であるゆえん。してみれば、校正の校はまさしく学校の校でもあるわけだった。