TOP

岩波書店創業100周年ということで、私個人もふかい思いをしている。ただ私にとっての岩波書店とは、漱石全集、とりわけあの関東大震災、大正12(1923)年9月1日のあと、それをものともせずに、翌13年には第三次漱石全集を刊行した岩波茂雄と店員たちのバイタリティー、それに小宮豊隆らの学者や漱石資料の提供者たちを抜きにしては考えられない。

関東大震災は、創業10周年を迎えた岩波書店をもろにおそった。店員たちは全員無事であったものの土地以外のすべてを失ったといえる。その中には、大正6年に出版し8年には第2版を出した際の漱石全集の編集資料も含まれる。岩波茂雄にとってこれらの資料は、かけがえのない貴重なものであったろう。それをなくしてしまったのである。小林勇さんの『惜櫟荘主人』からは、語り口は淡々ではあるが、被害のひどさがよく伝わってくる。

その結果、まとまって現存する漱石全集の編集資料は、大正13年版、いわゆる第三次全集以降のものである。昭和3年の普及版(円本全集)、昭和10年の「決定版」がそれに続く。

漱石自身については、荒正人の『漱石研究年表』が圧倒的だが、岩波漱石全集の歴史をひもとくには、矢口進也さんの『漱石全集物語』(1985)が一番である。荒さんの本が漱石全集が出るまで、すなわち、漱石死後1年、大正6年12月までを扱い、矢口さんの本は、それ以降を扱うことになる。矢口さんの本は、今でもウエッブその他でかんたんに手に入るので、まだご入手でない方は、この際ぜひ手元へ置いていただきたい。もともとが『図書新聞』に連載されたものでだれにでも読める書き方である。矢口さんとは、生前、何度か手紙のやりとりをさせていただいたが、大変に控えめな方で、ある『坊っちやん』本の書評依頼が出版社から行った際にも、矢口さんはそれを辞退されて、私へ依頼させるようなことすらなさった。

このブログは、大正13年以降の現存する編集資料を手元に置いて、矢口さんが誠実に物語ったあちこちへ踏み込み、断片的ではあるが、それらを具体的に裏付けようとするものである。そこで、このブログの読者は、矢口さんの本を読んで、全集の歴史をある程度は知っておいていただきたいものである。

大正13年版、昭和3年版、昭和10年版の現存資料は、おのおの独自な残り方をしている。このブログを始める際に「今後の予定」として概略した(1)(2)(3)のようなものである。
漱石死後20年になる昭和10年の決定版に至っては、日々細かく記された編集日誌(分厚い大学ノート5冊)やその他多数によって、立案から最終巻配本までの紆余曲折を、臨場感いっぱいに再現することすら可能である。それが私の力量でどこまで出来るかだが。このブログに強みがあるとすれば、まだ知られていないかもしれないこと、公表されていないかもしれないことを、その具体的資料の公表と共に、焦点をしぼって執筆する予定だということである。漱石については、既発表の情報があまりにも膨大で、「かもしれない」というしかないということではある。



以上の前置きを書いて、大正13年版からブログを書き始めようとした時、ちょっとしたハプニングが起きた。各メディアから、菅虎雄宛漱石書簡新発見の報道が一斉に流れたのである。その所感をブログの他の箇所で述べたばかりなので、漱石が菅へ送った書簡に関連して、この項を書き始めようと思う。

といっても、このブログで述べるのは書簡の内容ではない。端的には、書簡が全集で活字化される過程である。

今日でもそうだが、私のような悠長な研究者に比べても、出版社の編集者の仕事はえらく早い。結果的には同じような仕事になる場合でも、鍛えられた編集者は効率性に抜きんでている。当時の岩波においても、現場には数人しかいなかったはずだが、新たに始める膨大な全集編集実務をみごとにこなし、無駄一つない効率の良さを見せる。「全集編集」とは、取りかかった全集を無事に出版できたらいいというだけではない。長期的な視野に立って、その後の新版のために、日々のさまざまを記録に残しておく必要があるのだ。

そこで菅の書簡である。(なお、必要と思われる写真類は、後日まとめてウエッブに掲載します。)

「漾虚碧堂」と墨字で題され、だいぶ後の昭和10年9月付き「借用品控」の細かい記録の中には「第三次全集編輯日記らしきもの」、同年同月の「備品・書籍目録」では「編輯雑録」と言及される四六判のノートが存在する。大正13年4月18日から8月2日までつけられた日誌である。その5月12日の日付で、

菅虎雄氏より漱石先生書簡参拾弐通(封書二十六通 はがき六通)借用ス
(但阿倍能成氏が参上借用)

とある。この32通は実際にはすでに3月21日までに借られているようで、「菅様より借用分 封書廿六通 端書六通 〆丗二通 三月廿一日」と書かれた包み紙があるが、その中には、書簡の写しが35枚(岩波用箋 130x180ミリ)入っている。現在までに発見されている管宛書簡は40点ほどである。

なお、『子規全集』を予約者に送る際に使っていた小型段ボール箱 250 x 190 x 50 ミリ が残っていて、それは以下のようなものである。
「小石川区小日向水道町 九二 安倍能成様」の宛先(書留小包)は書かれているが、この箱は、安倍氏が、中に管氏の書簡類を岩波へ届ける際に使用した可能性が高い。箱の脇には太字で、「外ニ写シ三ツ(原文ハコノ中ニナシ)」、「管虎雄氏宛 封書二十六 葉書  六」「右 筆了」「岡村千馬太氏ニ話ス 校合スミ(不明ノ処アリ 管氏ニキクヲ要ス)」

そこで、具體的にこの写しである。菅宛書簡には、数行のはがきやメモ程度の短いものから、長文までさまざまだが、この35点の写しは、すべて書簡冒頭を30字程度ほど写し取っただけである。それに、日付順で1から35までの番号を付し、年月日と宛先が記されている。後日の確認用には、これだけで充分なのであろうか。

この場合、書簡の本文全体、宛先、送り先等を転写したものが別に作成され、それが上の「右 筆了」で、印刷所へ送られたのであろうが、そうした資料は残念ながら残っていない。書簡自体が直接印刷所へ持ち込まれて原稿として用いられた可能性もないわけではないが、印刷所は、一般の原稿と違って朱など入れられないので、仕事がしにくかったであろう。

日付順で1から35までの番号が付された編集部の菅虎雄宛書簡35点の控えについて、もう少し記しておきたい。

1枚目は、初期の明治31年9月、熊本からのもの。書簡全体の詳細については、全集を参照されたい。

一、  明治三十一年 九月四日 イ便 熊本より 大西医院方宛

其後は不相變御無沙汰に打過候過日來御上京のよし忽ち接華墨承知致候

2枚目は、だいぶたって、ロンドンからのはがきである。

二、 明治三十五年二月十六日 倫敦より 
   小石川区林町六四宛 はがき

其後は御無沙汰をして濟みません不相變
頑健には候へども近頃の寒氣には閉口水道の
鐵管が

3枚目は、明治36年二月二十三日 矢来中根方より 小石川区林町六四宛
の短いものである。
36年には、8枚目まで6点もあり、一番多い年である。

以上の35点はすべて、奥付に大正14年11月5日発行とある『大正六年版 大正八年版 漱石全集補遺』に収められた。